メッセージ

荒川洋治  小説と世界


 最終候補の四編は、それぞれに世界をもち、語りかけた。
 柄澤昌幸「だむかん」は、ダム管理所の職場と、仕事のようすを記録風に描いたものだ。第一章「生還者の告白」と、第二章「ダム管理所」の連結は、意表を衝く。構成面では、巧みなものと思われた。職場、仕事、そして作業の手順、それらが社会とつながるようすが理解できた。いっぽう登場人物の心理描写には、むらがあり、ところどころで人間の冷気、あるいは冷たい視線を感じた。女性への反応、ラストの時間ごとの記録など、粗略ととられかねない。この小説のなかでひどく冷たいことが行われているわけではない。断片的ではあれ、これがいまの人間の仕事のありようかもしれない。目の前のものにかかわるしかない人間の「自然な」生活と感情を、またそれを描こうとする人間に「欠けているもの」を、この作品は映し出しており、その意味では十分なものかと思った。
 小峯淳「大学半年生」は、いくらかの周辺の人とかかわる、家族の物語。「櫛の歯が抜け落ちる」ような欠落感をともないながら、一日一日の家族日記を完成させていく。「私には、死ぬってことと目の前にいないことの違いがよくわからないみたいなのね。区別できないの。家出している間中ずっと、ああこれでお母さんもお父さんもお兄ちゃんも死んだも同然だなあ、そう思ってた」。誰もがもつこうした感覚を通過するだけでなく、たちどまって語る場面がほしかった。思春期の思考や感情が、より年下の人間にもつながっていくなど、日記の方向はそれなりのレベルとステージをもつのだが、渦巻きがだんだん衰え、家族よりも小さなものにおさまる気配がある。
 杣ちひろ「ヘラクレイトスの水」は、話のつくり方、運び方がよく、最後までひきつけた。四編のなかでは小説らしい小説といえるかもしれない。過去の記憶、あるいはいまあったばかりの人の記憶など、区別しながらたどってみると、かなりおもしろいことが書かれていることがわかる。「どうにもできない。でもあんたが……次の瞬間裏切ろうと考えている人間に、幸せな記憶を話すことができる人だなんて、思いたくないんだよ」というあたりにもそれはうかがえる。しかし記憶ということでいえば、ストーリーという「機材」の記憶しか残らないということもありうるのだ。
 山本眞裕「ひょうたんのイヲ」は、ミュンヘンオリンピック開催の一九七二年、水俣の人たちのようすを描くものだ。そこに登場する誰もが、直接にあるいは間接に「水俣病」とのかかわりをもち、かかわりの濃淡が、数々のできごとを通して、ゆるやかに示されていくという内容(人物が登場する順序もおもしろい)。「僕」がひとりでミカン園に走っていき、「初めてミカン園に怖さを感じた」というあたりの場面など読むと、読んでいるこちら側にも、かかわりがあるように感じられて、すいこまれる気持ちになる。ぼくはこの作品からいろんなことを思った。
 舞台となる刻限から、ことしで三十七年が経過している。この水俣の世界と、いまの世界には、おおきな距離がある。問題がすっかり終わったわけではないものの、この作品に、現代を感じにくいという意見も当然あるだろう。どうして水俣の時間を書くことになったのか。作者その人に、なんらかの結びつきがあったのかどうか。それはこちらにわからないけれど、失われた時間をまきもどして、このことがらを、空気の底にあるものを描いてみたいという気持ちがあったのだろう。古びた時間のなかに入って、現在という時点でそのことがらをうけとめる自分の気持ちをたしかめたいということなのだと思われる。三十七年という時の間には、この問題について特におおきな変化といえるものはないかもしれないが、ことがらが少しずつ人の心にしみこむ時間なのだと思う。そのしみこむ時間こそが、この作品の主人公だともいえる。その点で、これを、現代の小説とみることは可能なのだとぼくは思った。時間的な距離をもつ小説の書かれ方としてこの作品は、ひとつのかたちをあらわしていると思うからだ。こうした作品を前にしたとき、ぼくにはあまりいいことばが見つからない。作品の要点を記して再現するのではなく、ここにこうしてこちらが書く文章のなかで、ことばのなかで、それと同じような世界をつくってみたい。そうすることで、向きあいたい。そんな気持ちになって、こちらも文章を書くことになるのだ。それがぼくがいまここにいる、しるしなのだと思う。そんな静かなひとときを、さずけてくれる作品だった。ただし全編に頻出する方言は読みづらい。またバレーボールの話も、過剰だと感じた。出番をおさえ、効果をあげることもできたはずだ。不要なものをいくらかくっつけている。整然とした書き方が見たい。それも距離からつくられる小説に求めていいものではないかと思う。
 最終的には「だむかん」「ヘラクレイトスの水」の二編と「ひょうたんのイヲ」が残った。もっとも話題になったのは「だむかん」で、評価は分かれたものの、その場をにぎわせた作品が選ばれたことになる。理由のひとつは、作品について、読んだ人が感想をもてる、議論できるということにある。「だむかん」は、この人、悪い人ではないか、いや、むしろいい人ではないかというようなところでも話題にできるという面、読者のことばが発動する場面をゆたかにもっている。いくつかの決壊個所が指摘されながらも終始、議論の中央にとどまった。
 いまの日本人の日常生活のなかに、おどろきといえるものはあまりない。作品のなかにそれが書かれても、少しはあったはずのおどろきのようなものが、減じてしまうことも多く、むしろ、作品で書かれることが邪魔だ、マイナスになるというふうにも見られかねない。そのような時の目盛りのなかで、興味を感じさせるものを散文で書くこと、書きあらわすことはとてもむずかしくなった。その点、「だむかん」には、マイナスにはならない世界があった。