メッセージ

三浦しをん  客観性から生まれたユーモア

三浦しをん (作家)

 最終候補となった四作とも、楽しく拝読した。受賞を逃した作品も、一定の水準に達していたと思う。では、読者をより作品世界に引きこむために、もう一歩なにが必要なのかと考えると、「客観性」という言葉が浮かぶ。
 たった一人でもいいから、だれかの胸を真に強く打つものであるように、と願って書かれた小説は、たぶん(百人とまでは言わないが)八十七人ぐらいのひとの胸を、期せずして打つものになるだろう。しかし、自分だけがわかっていればいいやと思って書いた小説は、決して他者には届かない。当たり前のことだが、このちがいは大きく、ちがいを乗り越えるために実践しつづけるのはとても難しい。客観性の有無とはつまり、他者に向けてひらかれた物語を紡ぐための、さまざまな工夫ができるか否かだ。
「骨捨て」は、穴子のエロティシズムが大変よい。ラストの一文も私は好きだ。しかし、設定された時代に比して、登場人物の言動や感覚が古臭すぎる。特に松枝の人物造形が、とても素人の女性とは思えず、しかし妙に上品なしゃべりかたをしてもいて、非常につかみにくい。また、描写から「あぶくの町」の情景が浮かんできにくい点が、大変惜しい。町のにおいや規模を伝えるためには、没入しきって書くのではなく、一歩引いて読者の想像に委ねるゆるやかさが必要なのではないか。
「降着円盤」の、主人公が置かれた静かな閉塞状態への鬱屈は、十二分に共感できる。ほのかな希望と、他者との新たなる関係性の芽生えをさりげなく提示するラストもよい。ただし、主人公の自意識過剰さを外側から見る視点がないため、読み進めたいと思わせるダイナミズムが、物語からやや欠落してしまっている気がする。「電話男の正体はだれなのか」が、物語の推進力となるべきもののひとつだと思うが、正体解明の過程にサスペンスがない。静的な話のわりには、登場人物が多すぎるのではないか。
「さよなら、お助けマン」も、登場人物が多く、最初はだれがだれやら少々混乱する。しかしそのうち、各人の事情や「元也と翔子の関係はなんなのか」が気になりはじめ、どんどん話に引きこまれた。元也がギターの練習をするシーンなど、最高に愉快だ。ただ、肝心の各人の事情が、やや類型に流れすぎるきらいがある。「どこかで聞いたことのあるようなエピソード」の域を出ず、「たしかにあり得るけれど、いままで自分(読者)のなかで明文化されていなかった」という心情を描くには至っていない。そのため、ラストに近づくにつれ、妙にメロドラマチックな展開になってしまうのではないか。また、人称や視点が頻繁に転換するが、小説としてもう少し洗練させる手法を探る余地があると思う。
 今回私は、「あたらしい娘」を一推しした。方言も含め、文章のテンポがよく、ユーモアが漂っている。さして大きな事件は起きないのに、次が気になってぐんぐん読み進めてしまった。主人公のあみ子は、はたから見たらかなり深刻な立場に置かれているのだが、読者が悲痛な気持ちにあまりならず、あみ子とその周囲の人々を等しく応援したくなるのは、ユーモアが有効に働いているからだ。ユーモアは客観性から生まれる。深刻さや哀しみに決して耽溺することなく、作者はひたすら描写の積み重ねによって、読者に心情と状況を的確に伝える。
 わけのわからないパワーに満ちた作品であるため、荒削りに見えるかもしれないが、実は細かい工夫がこらされている。その証拠のひとつは、情報を読者に提示するタイミングが抜群にうまいということだ。
 冒頭、すみれを採りに家から出てきたあみ子は、ゆっくりした動きで裏手の畑へ向かう(土のにおいが香ってくるかのような描写だ!)。奥歯を使ってビニル袋を開けるので、歯がなくなった年齢の女性なのかなと思う。すると少し後のページで、やはり前歯がないことが判明する。ところが直後、前歯は「男の子にパンチされてどっか行った」と語られる。えっ、ではあみ子は、おばあさんではないのか。なぜ男の子にパンチされたんだろう。と、次から次へと読者の興味を引く仕掛けになっており、しかし焦らされるようなストレスはまったくない。作者の神経が細やかに行き渡った作品世界に、全編を通してたゆたうことができる。
 たとえば登場人物が哀しいときに、作者が「哀しい」と説明しては駄目なのだ。説明しきれぬ哀しみを抱え、登場人物は作品内で生きているのだから。もし説明できるのであれば、小説を書く必要も情熱も生じるはずがないだろう。
「あたらしい娘」は、小説は説明ではなく描写で成立すると証明しているし、それは同時に、人間は説明しきれぬ感情や言動で構成された生き物であるという真実をもあぶりだしている。
 唯一気になるとすれば、タイトルが妥当かどうかという点だ。「あたらしい娘」がなにを指すのか曖昧で、選考会でもさまざまな解釈が出た。もし、あみ子のことを指すのだとすれば、勝手ながらタイトルの変更を作者に提案したい。「あたらしい娘」というような定義づけ/説明をすり抜ける力と自由さがあるのが、あみ子の魅力のひとつだと思うからだ。ちがうものを指したタイトルだとしても、あみ子のことだと誤解されるおそれがあるかぎり、やはりタイトルは変えたほうがいいと個人的には考える。