メッセージ

加藤典洋 3・11以後の感触

加藤典洋(評論家)

 今年の選考は難航したが、難航の仕方に、これまでとは違う感触があった。それぞれに帯に短したすきに長しの感は否めないのだが、どこかにいわば3・11以後ともいうべき質感がある。私は今回、どちらかと言えば少数意見であるものを記すが、選考の「熱」ははっきり他の選考委員と共有していた。
 福岡俊也さんの「ニカライチの小鳥」では、語り手が、タカシとエリという男女の二人に別れる。この二分法は、哲学と文学とに対応するらしい。しかも、この二人からなる語り手は男性で、同じ大書店のバイトをしている堀北さんという女性に淡い恋心を抱いている。この設定が、なかなか面白い。恋愛というものが、あるところまできて、そこで止まる様子が描かれているからだ。そこで「私」というものが、とても柔らかに設定されることになっているのも、好ましい。表記も厳密ではなく、僕、僕たち、というのも出てくるが、厳密でない、このゆるやかさに3・11以後の感触がある。しかし、その「私」が考えることの核心、思弁の部分が、迫ってこない。自然の斉一性というものへのこだわりが恣意的で、ヒュームとヴィトゲンシュタインの面白さが、突きつめられているとも思えない。数字が林檎が二個あるところからはじまるとか、意外性には意外な先行者がいるとか、面白い発見もなくはないが、他は思弁が漂うばかり。アミのありがたみも、今ひとつ。それが半分、致命的である。物語も、ウタクラゲも、わからず。しかし、わからなくとも、困らない。そこがあと半分の致命傷というべきか。何かを穏和に冷温停止させているのだが、この作品では、そもそも、作中でメルトダウンが起こっていないのではないか。そう感じさせるところが弱かった。
 向日一日さんの「成長の儀式」は、SF仕立て。その未来世界では、人類と悪魔の世界最終戦争のようなものが、17歳と18歳の未成年を選抜した軍隊を用い、南極大陸の一角を戦場に続いている。『スカイ・クロラ』という小説、アニメ映画を思わせないでもない設定だが、そのうちの一人の兵士の、休暇中の一週間の経験が、特に語りの軽さ、おもしろさによって、軽快に描かれている。しかし、この休暇中のさまざまな経験の中で、この少年のもう一つの「成長」の物語が、結局は「儀式」として、占い師の予言とやくざとの出会いをきっかけにした老人との賭けの形で描かれるところに、私は空転を感じた。『カイジ』というマンガ、映画にも、こんな場面と設定があったように思うが、儀式は描かれている一方、絶望の底にたたき込まれた若い人間の「成長」がどのように可能か、ということは、語られない。では逆に、その空白ぶり、人間の剝製の内部のからっぽが差し出されているかというと、しっかり紋切り型の物語も用意してあり、そうでもない。この語りの明朗さ、絶望的な物語の中の希望と絶望の近接ぶりに、なんとなく、3・11以後の小説という感じがあるだけに、そのあたり、残念だが、読者の中に再結晶が生じるには、書き手の中のホウ酸水が、すでに「過飽和」でないといけないのではないだろうか。
 真木由紹さんの「唾棄しめる」。私は今回は、この作品が、なかで、ほぼ唯一、書き手の「まともさ」が実感できる作品かと受賞作に推す心づもりで選考の場に臨んだ。行文は、粗っぽいというか、むしろ粗雑、粗悪であって、それは表題の選び方にも、悪趣味のルビ表記にも、一頁を占めかねない固有名詞の反復などにも、露わである。しかしそこに、まったく異質の数行が入ってくる。たとえば、あるとき、留置場で元ホームレスの同房者が「駅の売店においてあるような安っぽい装丁」の本を読んでいるのを見て主人公は「そんなの読んで意味あるんすか」と言った。そしたら一言、「ごめん」と返された。あるいは、夏の間、しばしば介助することになった老婆が、死んでしまったことを知らされる。部屋を、あと六日間は自由に使えますけどぉ、と笑う不動産屋に、主人公が「電話を持った手を震わせながら自分が老婆を揺さぶり過ぎた気もした」と感じる。
 こうした水と油の取り合わせをどう受けとるか。私の場合、一方で、この混淆は、粗悪部分のほうを、書き手の「露悪的」「偽悪的」な表現、と感じさせるように働いた。わざとそうしていると。しかし、それにしては、前半の主人公がどこぞの大学の大学院生であるという設定など、おかしくないか。案の定、選考の場で、ある選考委員から、この「授業料」を主人公は誰から出してもらっているのか、そんなことをやめて「働けば」いいのではないか、という指摘が出た。その指摘を振り払うだけの力が、この作品にはない。すると、どうなるかというと、粗悪部分の中にちりばめられた「心にとどまる」挿話、感慨、それらに書き手は、逆に「安心」しているのではないか、ということのほうに私の船は傾く。「偽悪」じゃねえよ、それが「おめえ」だよ、という声を、書き手/作者は、この作品を書いている間、自分の中に聞いたのか、ということである。
 主人公が関わることになるひきこもりのバイト仲間、バイト先のキャバレーのホステスが、様々ないきさつを経て一昔前ならともに新宗教にでも入る具合に、いまなら「ポクチン沖地震の被災者支援」「足長育英会存続」の募金の列に立つ。それらを見て主人公が「迂闊に被災者になれねぇなと、思」う。さまざまな細部から、この作品にも、私は3・11以後の感触を受けとった。しかし、「働けよ」の一言は、この作品に、有効な一撃であり続ける。これでは行文の「粗悪」は、「粗悪」と受けとめた方が、批評的ではないかと、感じたところで、声がとまった。
 選考では、こうした経過を経て、最終的に隼見果奈さんの「うつぶし」が受賞作と決まった。オグシチャボという尾長鶏的なチャボを飼育するミドリノ養鶏場を営む父のもとに育てられた娘、雛子の物語。父との関係が強く、外界とうまく関係がとれない。父は公平一筋の人柄で、ひずみがない。娘はそこからひずみを受けている、という設定である。文学的な密度では、この作品が一番という他の複数の選考委員の指摘に、虚を突かれる思いがあったが、私の評価はその逆。この物語の設定、「私」の社会からの懸隔の物語に、文体ともども、いわゆる「純文学」的な旧套性を強く感じ、ほぼ受けつけず、というのが正直なところであった。その理由を言葉にすれば、登場人物である主人公の雛子、想像妊娠をする山岸さんに、魅力を感じられなかったとなろう。ほぼ無意味な日常的なしぐさ、みぶり、ぼそっとした呟きなど、ないなあ、と感じながらサクサクと、また索然と読んだ。どこかで、ごく狭い意味で書き手が「(純)文学」というものを信じ、同趣味の読者を当てにしているのでないと、こういう「世界」は描かれないゾ、という偏見が、いつのまにか私を捉えて離さなくなっている、そういう可能性もある。
 あとで、その羽毛を鬘の頭髪に用立てるオグシチャボという鶏が、実は実在せず、作者の作りだした架空の存在だということを知って、そのことを面白く感じた。四つの候補作中、この作品にのみ、3・11以後という感じがない、と思っていたが、この架空存在としてのオグシチャボは、やはり、「以後」のものかもしれない。
 受賞に反対しなかったのは、今回の候補作のレベルが、何かの胎動とまではいかないが、ある兆しを感じさせ、全体として、これまでよりも未知性が高いということ、その何よりの証拠として、議論を行う自分に、「元気」があったことを自認したからである。そういう中、四作それぞれにまったく傾向の違う試みの競合を経て、この作品が選ばれた。私は、その「勢い」が、やはりこの作品にもあると、いま感じている。