メッセージ

三浦しをん 伝えるための工夫

三浦しをん(作家)

 もし、「世紀の傑作が書けた」と思っても、自分以外のだれかに読んでもらわなければ、その作品は本当の意味では傑作にならないだろう。「傑作だ」と自分で確信し、それだけで満足するのなら、原稿は机の引き出しにしまっておき、百年後に発見され評価されるのを待てばいい。
 賞に応募するということは、百年後ではなくいま、だれかに読んでほしいという気持ちが少なからずあるということだろう。つまり、いま、だれかに伝えたいと願って書かれた作品であるはずで、そうであるならば、伝えるための工夫を最大限こらすべきだ。工夫をこらす余地は、文章や構成やユーモアや登場人物の造形など、さまざまにある。
 自意識(登場人物および作者の)と客観性のバランスを保つ難しさについて考えながら、最終候補作四作を拝読した。
「唾棄しめる」は、後半四分の一ぐらいはテンポがよくなるのだが、最初のほうは特に文章が頭に入ってきにくい。ホームの端で祈る女とか、台湾人留学生とのほのかな感情の交流とか、いいエピソードがたくさんあるのに、現状では単なる断片になってしまっている感があり、大変惜しい。主人公が自意識過剰で傲慢な気がして、その感覚についていけないというのが率直なところだ。生きている実感がない、というような「伝統的」な、しかしある意味では甘えたテーマを、いま小説で語るには、相当な工夫が必要になってくると思う。もちろん、主人公は後半で他者とかかわりはじめるのだが、その変化は作中においてあまりにも些細だ。いい比喩や描写や言いまわしがあるので、次は「このさき」、周囲とかかわるようになったひとの苦闘を、ぜひ読みたい。その際は、「少し派手とは思ったもののグレーの上着を着る」ようなユーモアを、どうか忘れずに。
「ニカライチの小鳥」は、作中に書かれる哲学的、文学的なやりとりが正しいのかどうかまったく判断はつかねど、文章は非常に読みやすかった。しかし、「小説としてはつまらなく感じられる」という拭いがたい私の実感を、どうすればいいか。無論、これは個人的な感想なので、意見を異にするひともいると思うが、「新しい文学とは」とぶちあげておいて、この作品が「新しい文学」だとは到底思えないのは、致命的ではなかろうか。本作で思考したことを踏まえ、作者は次に書く小説で、「新しい文学」を目指して勝負に出ていただきたい。一人の人間のなかで、タカシとエリという二人格が対話する、というつくりになっているが、二人があまりにも似かよっているため、分ける必要があるのかという疑問も生じる。私がエリだったら、堀北さんのあまりにお寒い言動に鼻白み、「こんなカマトト女はやめておけ」とタカシに忠告するところだ。この設定で両者が対立しないなら、二人いる必要はない、ということだ。
「成長の儀式」を、私は一番に推した。受賞に至らず、非常に残念だ。推した理由は、饒舌な語りにもかかわらず、作者自身の自意識は決して前面に出てこず、ひたすら「読者を楽しませよう」という潔い気概に満ちていたからだ。つまり、読んでいて純粋におもしろい。巧妙に伏線も張られており、七日間の出来事を通し、主人公の変化がきっちりと語られて、なおかつ含みも持たせるラストである。主人公が姉と再会するシーンなど、詩情にもあふれていて、「こう来たか!」とちょっと興奮した。
 ただ、タイトルはどうだろう。テーマを説明しすぎている気がする(こんな戦争が成長の儀式なんですよ、という皮肉も、もちろんこめられていると思うが)。説明系のタイトルにするなら、もっとストレートに「南極大戦争」とかでもよかったのではないか。また、位置関係の描写などで、やや洗練されていない部分がある。例を挙げると、冒頭の列車のシーン。一行目の「闇の中を列車は疾走している。」は、これだけではカメラ位置を特定できないが、まあ、疾走する列車を俯瞰で、あるいは横から見た図を想像するのではないか。ところが二行目では、列車の最前部に取りつけられたカメラから、前方を見る視点になる。しかし次に、カメラは列車内にいきなりズームする。映画ならば、細かいカット割りと編集技術で、こういう視点の移動もスムーズにできるかもしれないが、小説の場合、冒頭から視点が定まらず、ややめまぐるしい感がある。読者により伝わりやすくするため、もう少しの工夫が必要だろう。旧来の「国」や人種という意識がどの程度残っているのかについても、もう少し配慮と説明が欲しい(ヴェトナム戦争は「知らないかもね」という前提なのに、それよりずっと以前のアメリカ独立戦争は、みんなが知っているのが前提の世界とは、いったいどういうことなのか。また、「本来の色とは異なる白に身を包む悪魔たちの心境はどうだろうか」とあるが、だったら、人類側の黄色人種や黒人の心境はどうなのか)。
 作者の物語づくりの才能がこのまま埋もれていってしまうのは、実にもったいない。ぜひ次作をお書きになり、なにかの賞に応募するか、どこかの編集部に持ちこみをしていただきたいと願う。
 受賞作は「うつぶし」ということになった。作品の密度が濃かったし、オグシチャボの造形も素晴らしかったので、否やはない。ただ、これもタイトルがよくないのではないか。読了後、「うつぶし」を辞書で調べ、いくつかの意味を知ったが、それでもあまりピンとこない。また、主人公は自身の生理的感覚には非常に敏感だが、周囲への関心にやや欠けるきらいがあり(それゆえ、作品の密度が高まっているともいえるが)、いまのままだと、主人公の思いこみが激しすぎるというか、ややおおげさに感じられる。男子児童に暴力をふるうまではいいのだが、その一回の行為で、ここまで付近住民に排斥されるだろうか。という疑問が生じるのも、土地柄や付近住民のことがほとんど描かれておらず、ひたすら養鶏場内(もっといえば、主人公のみ)の出来事に焦点が絞られているからだろう。一番の疑問は、「馴れ合うべき周囲が存在しなかった。自分を慰めることを知らずに、ここまで生きてしまった」と言う主人公が、なぜこんなに饒舌に語る言葉を持っているのか、という点だ。つまり、一人称であるにもかかわらず、この作品で語られている言葉は、主人公の語りではなく、実は作者の語りとなってしまっているのではないか、と思えてならない。もちろん、作者が主人公の思いを言語に翻訳し、主人公になりかわって語っているのだ、とも取れるが。
 作者の感性、物語ろうとする意志の強さは買うが、本作においては、主人公の言葉が主人公自身とは乖離しているように感じられ(つまり、作者の自意識が前面に出すぎてしまっているように感じられ)、たくらみが十全に機能していないのではないか、という気がややする。