メッセージ

加藤典洋 化粧しない女性の顔

 今年は例年になくあっさりと当選作が決まった。全員一致といってよいだろう。他の作品がよくなかったということでは必ずしもない。こころの中に対抗馬的な作品が一つあった。しかしあまり論じる機会がないうちに、それでもよいという気になっていた。
 佐々木基成さんの「人生のはじまり、退屈な日々」は、短期の戦争が本州山口県から北九州にかけての一帯で起こっているという設定。日本の昨今の現実のうえに、アニメのセル画シートで、戦争というできごとが重ねられるという趣向は、うまくいくなら、面白い効果を生むはずだが、私は、何となく、村上龍の『半島を出よ』を思い出した。それからの安易な模倣にすぎないという思いが、読み進めるにつれ、強くなった。一番の疑問は、戦争と学校の取り合わせのうちに、戦争のリアルな衝迫がほとんど感じられなかったこと。戦争は人を傷つける。あるいは人を殺す。そういうことが次から次へと起こる。それはそこに生きる人間に影を落とすだろう。
 ところが、主人公も、彼の元生徒も、他の登場人物も、変わらない。セル画のシートを外すと、学園小説が現れるような感じが最後まで消えない。ゲリラであるとか、どこともしれない敵国からのミサイル攻撃であるとか、自衛隊の男であるとか、いちいちのずさんな細部に違和感をおぼえ、いらいらしたが、何よりも戦争が人間の中に生きていないことが私にとっては、致命的だった。
 水槻真希子さんの「矩形の青」は、新宿西口界隈のどこか裏通りあたりの喫茶店の店仕舞いにともなう、一人の若者の数日間の物語である。店は大叔父木崎がやっていた。その大叔父が突然死んだ。どういう人だったのかはあまり知らない。残された本とかアンチークめいた小物などを片付けていく主人公行祐の物語と、そこで働いていた由香莉の物語が並行して進み、最後に交わり、また離れていくが、最後まで、物語は動かない。回想として行祐、由香莉の会社勤めの日々が描かれ、現実には、たんたんと片付け作業が進んでいく。背景に大叔父が関心を寄せていたと思われる地霊的な淀橋浄水場の水の話が語られるが、そこから大叔父の人柄が浮かんでくるというわけでもない。それでどこにも収斂しない物語がめざされているのかという気になるが、すると最後、行祐と元の恋人玲菜の話が出てくる。この元恋人がまったく優柔不断でダメな人物なので、読み手はしらける。
 たぶん、作者は、水のように希薄な物語を、念頭においていたのかもしれない。喫茶店の物語なのに、喫茶店の名前も出てこない。しかし、水の流れが弱いため笹舟が手から離れない。書き手が、ここにあるはずの「物語」の周りをぐるぐると回りながら、結局中には入れずに帰っていく。そんな光景を私は思った。
 これに対して、晴名泉さんの「背中に乗りな」は、面白く読める。話は、牛の話、ついで主人公がいま同棲している相手の智章と知り合うところからはじまる。やがて口数少ない智章の家族的背景が浮かびあがり、東京に住む腹違いの姉夫婦、ついでその一四歳の娘みかんが出てくる。こうした求心的な流れのあと、この不登校のためにしばらく預けられる女の子みかんが同心円の真ん中におかれると、そこから後半、フィルムを逆回しにするように、話は遠心的に展開し、みかんが東京の家に帰るところで、話が終わる。物語に動きがある。何より書き手が人間のことも、自分のこともよくわかっているので安心して文章を追える。また、文章のグルーブ感というものをよく知っているので、読んでいて快い。智章母の雪さんとか、主人公の両親とか、智章姉の瑶子さん、その夫の平川さんとか、その人柄のよさ、調子の良さを含め、それぞれにうまく人物造型もできている。細部も面白い。誰か他の委員が猛烈に推したら、反対はできないなという感じをもって私は選考に臨んだ。しかし意外にあっさりと全員スルーしてしまった。そのことは冒頭に述べたとおりである。
 この後にふれる当選作に比べ、涙が出るなどというところはないが、そういうところがなくとも、人生はすべて備わっているという感じにさせられる。この作者は、伸びそうだと思う。ただ、激しいものがない。この、なかなか好もしい船が、ぐらぐらと揺れて、竜骨がきしみ、うわっ、ちょっと壊れそう、となる悪天候に欠けている。誰かが猛烈に推したら反対できない、とは思ったが、自分としては、猛烈に推すだけのものは受けとってない。スルーという結果を、気の毒に思う一方で、実はなかば納得もしている、そのあたりの私の心模様を、この力ある人には考えてもらいたいと思う。
 最後、KSイワキさんの「さようなら、オレンジ」には、そのサムシングがある。外国に住む日本人が書く、日本語の小説。とりたてて文章としても「うまい」という感じはなく、どこか非日本人の書いた日本語というニュートラルな感じがある。しかし、この作品に賞をあげたい、という気持に私はなった。
 エリートの日本人が外国留学してなにごとかを体験するという話はたくさんある。この種の小説では、しばしば主人公は語学には苦労しない。しかし、遠藤周作の留学小説などを例外として、その多くは、偽装がほどこされていても、ほとんどの場合、日本人が外国人の社会に入っていく変形の出世譚である。この小説には、そういう外国を舞台にした日本語の小説につきもののもの欲しげな感じがなかった。
 この小説は、外国に住む非本国人の生きがたさにふれている。その生きがたさへの共感を通じ、アフリカからの難民サリマ(ナキチ)、イタリアからの移民オリーブ(パオラ)、下層階級出身で言葉を知らない白人トラッキーといった他の登場人物とのわずかな交遊が成立している。そのロープの先が、小説の前に垂れている。読者はそれにさわることができる。そういうリアルな感じがある。
 また、これまで、さまざまな日本人の外国生活ものが書かれたが、書き手が現地の言葉の習得に苦しみ、同じ苦しみをもつアフリカ難民との間に共感を生じ、そこから、アフリカ難民の女性が、言語と文化の障碍に苦しみながら、よその国で生きていく話を、日本人が、日本語で書くにいたる、というような話が小説となることは、なかったと思う。私は読んでいて、『ラスト・エンペラー』の監督ベルトルッチが故郷の村を追われ、イタリアにやってくるアフリカ人女性を主人公にして作った映画『シャンドライの恋』をはじめて見たときの驚きを、思い出した。こういう話が、ほとんど歯の浮いた感じがなく読めることに正直驚いたことも、告白しておかなくてはならない。
 日本語の文章は、武骨で素朴だが、原石のたたずまいがある。最後、ハッピーエンドにいたる動きに「驚き」を与えるものがあるわけではないが、この大きな展開を、納得させるものはある。途中、二度、英文のメールが挿入される。そのことに、これはどうか、という疑問が出された。英語の先生への手紙が日本語で書かれている。ここだけ英文なのはたしかにおかしい。でも、これは、日本語では書けない。書き手はそう思ったのだろう。そう感じさせる力を、この小説はもっていた。
 ざっと何か突風のようなものになぎ倒されること。
 そういう経験が、この小説の背骨になっている。この小説の皮膚は最近の化粧をしない女性の顔のように、手入れされてなく、荒れているのだが、そのことがかえって、この小説の新しさなのかもしれない。