筑摩書房 チークマブログ

 古き良き下町情緒なんかに興味はない。老舗の居酒屋も、鉢植えの並ぶ路地も、どうでもいい。気になるのは50年前じゃなく、いま生まれつつあるものだ。  都心に隣接しながら、東京の右半分は家賃も物価も、ひと昔前の野暮ったいイメージのまま、左半分に比べて、ずいぶん安く抑えられている。そして建築家のオモチャみたいなブランドビルにも、ユニクロやGAPのようなメガ・チェーンにも、まだストリートを占領されていない。  獣が居心地のいい巣を求めるように、カネのない、でもおもしろいことをやりたい人間は、本能的にそういう場所を見つけ出す。ニューヨークのソーホーも、ロンドンのイーストエンドも、パリのバスティーユも、そうやって生まれた。  現在進行形の東京は、六本木ヒルズにも表参道にも銀座にもありはしない。 この都市のクリエイティブなパワー・バランスが、いま確実に東、つまり右半分に移動しつつあることを、君はもう知っているか。

 演歌の取材をするようになってわかったことのひとつ、それは演歌業界、カラオケ業界においては、いまだにカセットテープが重要な位置を占めているという事実だった。演歌専門のレコード店に行けば、いまでもCDと並んでカセットのミュージック・テープが売られているし、店頭には録音用の空テープが山積みされている。いまやCDすらあまり買わなくなって、ダウンロードやiPodばかりに頼っている自分には、新鮮な発見だった。
 レコード店主によれば、カラオケの練習をするのに、「1小節巻き戻す」といった細かい操作にCDプレイヤーを使うのはとても無理で、特に年配のお客さんにはカセットが好まれているのだという。たしかにそのとおりで、操作性のインターフェイスという観点からすれば、現在のCDプレイヤーやMP3プレイヤーよりも、アナログなカセットのほうが、はるかに優れている。
 カセットを聴くのに必要なのが、ラジカセである。1960年代末に日本で生まれた偉大な発明であるラジカセ。ちなみに「ラジカセ」という名称を最初に使ったのは、カーステレオやカーナビ、レーザーディスクも世界に先駆けて商品化したパイオニアだと言われている。
 ラジオが聴けて、カセットがかけられて、録音もできて、AC電源でも乾電池でも駆動するラジカセは、音楽が室内に縛りつけられることから一歩先に進んだ、画期的な技術だった。1980年代のアメリカにおいて、創生期のヒップホップ・シーンを支える存在として「ブームボックス」、「ゲットー・ブラスター」などと呼ばれ愛されたのを、覚えている方もいらっしゃるだろう。
 そんなラジカセが、いまでは「CDやMP3プレイヤーを買えない、使いこなせない」、テクノロジー弱者のための“貧者のオーディオ”に成り下がり、あまりに子供っぽく見にくいデザインの商品だけが、かろうじて電器屋の片隅に置かれているのは、こころ痛む光景である。
 1970年代から80年代にかけてラジカセが世界を席巻した時代の、重厚かつ硬質なデザインを懐かしむ声は少なくない。ただ、中古でそういうラジカセを購入しても、20年以上前に作られた製品だから、状態がいいはずはないし、メーカーが修理してくれるわけでもない。古物店やフリマで見かけても、購入に躊躇してしまうのは当然だろう。
 足立区花畑の団地に工房を置く<デザイン・アンダーグラウンド>は、いにしえのラジカセの美に魅せられた、ひとりのインテリア・デザイナーが職を辞し、40代からの後半生を賭けて開いた、希有な「ラジカセ再生ファクトリー」である。
 もうすぐ先は埼玉県という足立区北部の花畑から保木間にかけて並ぶ、築数十年の古びた団地群。花畑という地名があまりに不似合いな、その一角の1階が商店街になっている棟にデザイン・アンダーグラウンドがある。

 平日の昼間なのに、ほとんどが営業していない雰囲気のミニ商店街のなか、1軒だけ目立つ乳白色のガラスドアを開けると、いきなりそこはラジカセやポータブルテレビや、部品類が山と積まれたカオス空間。棚で見通せない奥のほうに声をかけると、出てきてくれたのがみずから「工場長」と名乗るデザイン・アンダーグラウンドの主、松崎順一さんだった。
 1960年生まれ、最近は『ラジカセのデザイン!』という、ご本人のコレクションを披露しつつラジカセへの熱い思いをぶちまけた写真集も出した松崎さん。「生涯一電気少年」とも呼びたい、その純粋な情熱あふれるトークをたっぷりお聞きした。


ここ、場所からしておもしろいでしょ。足立区って、こういう団地がけっこうあるんです。築30年とか40年とか経っちゃって、当時は必ず団地の一角の1階に商店街があって。そこも同じく30年、40年経っちゃって、住んでいる方が、60代、70代になっちゃって、買いに来る方が激減して、もう、ホントにシャッター通り商店街になっちゃっているんですね。まだ隣は魚屋さんで、反対の隣の隣は駄菓子屋さん。その隣が酒屋さん、やっているところもけっこうあって。でもその中で、こうやって空いちゃっているところがあるんですね。

ここはもともと、スナックだったんです。一段上がった奥がステージだったんです。だからスポットライトまでついているんです(笑)。エントランスの上にも、カラフルなスポットがついていて、スイッチ入れると赤とか青とか点くんですよ。ずうっと、つぶれてそのままの状態になっていて、ぼくは古い場所が好きで、ほんとうはリノベーションとか好きなんですけれど、ここは雰囲気がすごくよかったんで、家具だけ撤去して、そのまま使っているんです。

ぼくはもともと、生まれは三ノ輪なんですよ。山谷とかが庭だったんですね。だから昔から山谷で遊んでいて。浮浪者のおじさんたちと。もう、公園なんか、子供よりおじさんばっかりで。泪橋のあの辺は、道の真ん中で寝ている人とかいましたから(笑)。いまでも、その雰囲気はありますけれど。

いまもたまに遊びに行くんですけれど、朝がけっこうおもしろいんですよ、山谷は。朝市やってるんです、住んでいる人たちが。それがすごいんですけど、あすこで住んでいる人たちは、お金ないじゃないですか。だから日中は街に出て、周辺でいろんなものを漁ってきて、次の朝、5時半から6時半くらいまで、そこで店出して売っているんですよ。コンビニで廃棄されたお弁当とか、賞味期限が切れた煙草とか。あとは、危ないDVDとか、いろんな、ありとあらゆるものを売っているんですよね、朝だけ。東京の西成みたいなもんかな。

朝はだいたい100円玉5枚くらいポケットに入れて行くと、いろんなもの買えるんです。すっごいディープなとこで。でもあんまりそういうこと、知っている方いないでしょ、そんなとこで、そんなこと行われているなんて。結局、仲間うちでお金や食べ物を融通しあうというか。だから売っているものが危ないもの、ヤバいものばっかりで。どっからこんなの出てきたの、というものばかり。

そういうところに、ぼくはけっこう溶け込んじゃうんです(笑)。そこで古いカセットテープとか、ミュージックテープを買う。ほんとに古い家電とかも。どっからそんなもの探してくるんだか、いろんなものがあるんですよねえ。古いラジオとか、ラジカセも出てくるんです。なので、朝、早起きしなくちゃいけないんですけど。ちょうど6時半から山谷の中央の公園で、ラジオ体操が始まるんです。そうすると一般のひとが集まってくるんで、その前までやっているんですよ。5時くらいから、わんさかわんさか、ひとがいる。で、一般のひとが来だすと、ぱあっと引くんです。そういう世界がまだ東京にある。そういう場所を探すのがけっこう好きなんですね、昔から。

もともと、うちの親父が電気オヤジで、少年時代からラジオ作って……当時ラジオって、作るとすごく高く売れたらしいんですよ。真空管式の。それを作っていて。ですからぼくが物ごころつくころから、親父がかたわらでハンダゴテ握って、ラジオかなんか作ってたんです。

でもそれは趣味で、本業は発明家だったんです(笑)。発明家というか、特許をとるのが好きで。いちおう仕事はサラリーマンなんですけれど、そのかたわら常になにかを発明して、特許を申請して、いろんな妖しいものを作ってたんです。実を結んだものは、なんにもないですが(笑)。結局、中途半端で。そういうのを見て育っていて、ちっちゃいころから工作とか大好きだったので、小学校から図工・技術家庭・美術、生涯オール5です(笑)。作るのがほんとうに好きで。昆虫採集と、ザリガニ釣りと、あとはハンダゴテ握って、アキバ行って安いパーツ買ってきて、自分でつくるっていう。ハンダの匂いと自然の匂いが混在しているところが大好きで。そうすると足立区って、いちばんいいんですよ!

このへんってけっこう田んぼもあるし畑もあるし、川もある。カブトムシやクワガタも、ちょっと行くと採れるんですよ、埼玉に入ったほうとか。いま、ラジカセを仕入れに行くのも、メインになっている場所は埼玉なんですね。埼玉郊外の、だれも知らないような人里離れたところにポツンと、取り扱っている企業があって、そういうところに探しに行っているんです。

そういうところは電器屋さんじゃないんです。ニュースにも最近出てますけれど、国内でもう使われなくなった家電をいったんそこに集めて海外に送る、ヤードって呼ばれる場所です。高い塀をつくって、その中に電気製品とか、使われなくなった自転車とか、車とかを集めて。そこに海外のバイヤーが来て、コンテナに積んでその国に持って行っちゃうんですけど、そういうところに片っ端から出入りしているんですよ。ですから仕入先は、日本人じゃなくて、ほとんど外国人なんですね。(ヤードは)ほとんど外国人がやってるんです。中国人とか、ベトナム人、あとはトルコ人……まあ中東から東南アジアの方が多いんですけれど、いちばん多いのは中国人ですかね。日本の古い家電とかが大量にコンテナに積まれて、多分毎日のように中国に行っていると思います。

前に日本から大量に自転車が万景峰号に積まれて、北朝鮮に行ってたのが報道されましたよね。ああいう形で、日本で使われなくなったテレビとか冷蔵庫とかの家電が輸出されて、向こうの国に合わせて、直して売るみたいなんですね。その中でも人気なのが、ラジカセなんですよ。

ぼくもいろいろ聞いたんですけれど、結局は、発展途上国での家電のいちばん売れ筋は、ラジオとかラジカセらしいんです。なぜかっていうと、発展途上国って地方に行くと、まだ電気の来ていないところがいっぱいあるらしくって、ラジカセって電池で動くんで。で、カセット聞くっていうよりは、ラジオを聞くらしいです。ラジカセってだいたい、カセットが壊れて捨てちゃうんですけれど、ラジオってだいたい生きているんですね。だからそういう貧しいところで、ラジオとして、電池を1回入れれば、ラジオだけだったら1カ月くらい保ちますから。それで音楽聞いたり、ニュースを聞いたりとか。まだまだ潜在的なニーズがけっこうあるらしいんですね。だから集まってくるんです。

ぼくはちっちゃいころからラジオ聞くのも大好きで、小学校から中学校、高校まで夜中はずうーっとラジオを聞いて。深夜放送世代、ドンピシャでした。ラジオのほかに、当時BCL(海外の短波放送を聞いて楽しむ趣味)がブームでもあったので、海外放送を聞いたり、あとは生録もよくしました。ヘッドフォンしてラジカセ背負って、マイクで蝉の音とか。中学校のときにはまだSLが走っていたんで、それも録って。あっちから来てこっちへ走っていく音を、うちのステレオで再生すると、感動しましたね。目を閉じて聞くと、『うわあ、すごい、動いてる!』という感じで。

当然ながら、アマチュア無線もやってました。あれにはほんとにハマっちゃって、実家の屋上にでかいアンテナ立てて、毎日ぐるぐる回してたんですけど、高校生のとき、夏にいちど台風が来て、そのでかいアンテナが全部倒れて(笑)。うちの目の前が田んぼだったんですが、その田んぼにぐさっとアンテナが刺さって……。なにせ直径10メーターくらいのアンテナを屋根に乗っけていたんで、大変でしたね。まわりじゅう停電しちゃって、非常に怒られまして。それからちょっと、ほとぼりが冷めるまでやめてて。もちろんまた、すぐに始めました。実は今年、復活しようと思って。こんな時代だからこそ、アナログの無線ですからね。

アマチュア無線は、モールス信号が基本でしょ。モールス信号、また流行らせようと思っているんです。たぶん流行らないと思うんですけれど、モールス信号、だいっすきで!!! ここにもさりげなく、電鍵(でんけん)があります。モールス信号を打って送るヤツ。まだ売ってるんですよ。これをいっぱい買って、ラジカセと組み合わせて、ちょっとおもしろい電子楽器を作ってみようかな、なんていま考えてるとこなんですよ。ただラジカセを直して売るだけじゃなくて、それを自分なりにアレンジして、別の可能性を追及してみようかと。たぶん、そんなことしてるひと、だれもいないでしょうが。たとえばラジカセ1台で、ターンテーブルと同じように、スクラッチできるようにとかね。テープでどれだけおもしろい音を出せるかっていうのを、知り合いのミュージシャンと一緒に研究してるところなんです。


ぼくが子どものころは、カセットとオープンリールが共存していた時代でした。オープンリールのデッキを、中学生高校生のときに、個人で4台くらい持っていましたからねえ。自分の部屋にこんなでかいオープンリール……。1台は親から買ってもらって、あとは自分でお小遣い貯めて。高校生のときはずいぶん、学校に隠れてバイトしてて。怒られながらバイトしてまして。無線機も何百万か貯めて、アンテナまで全部自分で買ったんですよ。高校生のときですが、地元の喫茶店でバイトしていて。先生とかも来たんですけど(笑)、月に8万とか9万円くらいになったので、気合い入れてやってまして、だから学業はちょっとヤバかったんですけども、そのかわり高校生のときに、無線機で海外とばっかり交信してまして。日本というよりは、アメリカとかヨーロッパがほとんどなので、英語だけは成績よかったんですよ!

それで、よりいっそう家電というか、メカの世界に入り込むことになりました。メカといっても車とかオートバイじゃなくて、家電なんですよね。ですからいままで、感電して死にそうになったこと、何度もあります(笑)。もう、ビリビリきて。テレビなんて数万ボルトですからね、すごいですよ。焼けて、腕のあたりが真っ黒になっちゃったときもありましたし。

でも、進学したのはぜんぜんちがう方面だったんです。デザインとか、絵を描くのがずうっと好きだったので、親にも大学行くよりも手に職つけたほうがいいと言われて、結局デザイン学校に行かされちゃって。設計とかインテリア・デザインの学校に入学して、就職したのもインテリアのデザイン会社だったんです。

その会社は、基本的にはインテリアですが、造形の方面もけっこう幅広くやっていて、最初はおもしろかったんですけど、やっぱり、クライアントがあっての仕事ですから。それで、やっていくうちにどんどん行き詰ってくる……自分のものを表現したいという気持ちがだんだん出てきまして。30代の後半くらいからですか。

結局、会社には22年いました。けっこうぬるま湯に浸かってたみたいな感じでしたから。「ああーっ、いろんなことやってみたーいっ!」と思っても、給料もらって、30代なかばで結婚もしちゃったんで、まあもう、そこから独立したりとかは無理!みたいな。でも結局、40代になって、ああもう、ここでなんかやらなければ人生終わるなと思って。それでうちの家内を説得するか、しないかのうちに(会社を)辞めてしまって。

会社で20年も経つと、どんどん管理職になっていくじゃないですか。係長とか、課長代理とかだったのが、今度は課長に、みたいな。そうなるともう、ほとんど管理だけで、自分としてはデザインからは離れちゃう、完全に。ですから、あとは後輩たちの育成だけで、クリエイティブな部分っていうのが、もうこれで完全に終わるのかと思ったときに、決心したんですね。管理職になってまでも続けて、自分の好きなものを諦めたくはないと思いまして。「辞めたら大変だから、思いとどまれ」って、社長にも止められたんですけども。でも結局、そこの会社、去年でデザイナー全員、クビにしちゃったんですよ、業績不振で。ですから、去年クビを切られていたら、もうなにもできなかった。あとから振り返れば、あのとき辞めてほんとによかった!


次週の後編に続く!




DESIGN UNDERGROUND
東京都足立区南花畑5-15保木間第5団地14-105
著者近影

都築 響一1956年、東京生まれ。現代美術、建築、写真、デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』刊行。96年、日本各地の奇妙な新興名所を訪ね歩く『珍日本紀行』の総集編『ROADSIDE JAPAN』により第23回木村伊兵衛賞を受賞。 97年〜01年『ストリート・デザイン・ファイル』(全20巻)。インテリア取材集大成『賃貸宇宙』。04年『珍世界紀行ヨーロッパ編』、06年『夜露死苦現代詩』、『バブルの肖像』、07年『巡礼』、08年『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』など著書多数。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続行中。