09.12.18

スペシャリティ・ミュージアム探訪記

 東京の美術館といえばまず上野だが(だったが?)、あんなに大きくて有名じゃない、でもピリリと鋭いミュージアムが、右半分にはたくさん隠れている。フルコースじゃなくて、単品料理をハシゴしながら味わう、それはミュージアム・ホッピングの醍醐味だ。

第1回 アミューズミュージアム

 「BORO」と出会ったのは、いまから3年ほど前のことだった。BOROと言っても「大阪で生まれた女」のBOROではなくて、青森県の農村部に古くから伝わる、何十年、ときには何世代にもわたって、つぎはぎを重ねて分厚い布塊と化した夜具や、最先端のファッションのごとき衣類である「ぼろ」のことだ。
 青森、というよりかつての津軽、南部地方には、もともと「刺し子」「こぎん」といった伝統的なテキスタイル・ワークがあり、これは民芸の世界でよく知られている。しかし日本の農村のうちで、長く最貧の地域であった津軽や南部地方の農民たちにとって、「布」といえばまず「ぼろ」だった。そのような貧しい歴史を、いまとなっては恥ととらえる見方が「ぼろ」を隠し、忘れ去ろうとする意識につながった。だからいま、青森のどの美術館、博物館、郷土資料館に行ってみても、「ぼろ」を見つけることはできない。「ぼろ」とは青森県民にとって、遠い昔の「負の記憶」だったのだ。
 民芸の分野ではなく、アウトサイダー・アートを研究する友人から、はじめて「ぼろ」の写真を見せられたのが、いまから3年ほど前のこと。それは印刷の悪い薄手のカタログだったが、そこに収められていた「ぼろ」のかずかずは、僕にとってはテキスタイルを使った、ばりばりの現代美術にしか見えなかった。あるいはマルタン・マルジェラのような先鋭的なファッション・デザインにしか。
 極寒の地で綿を栽培することができず、他藩から買い入れるにはあまりに貧しかったため、唯一自分たちで栽培できる麻を布に織る。それを何重、何十重につくろいかさねて、ほとんど麻布のミルフィーユのようになった「ぼろ」。その存在感は、現代美術作家があたまでひねりだす"コンセプト"を、はるかに凌駕する圧倒的なパワーに満ちていた。「ぼろ」に出会ってから1年ほどたって、今度は地元青森で、非難と中傷と戦いながら、ほとんど半世紀にわたってただひとり、山村をめぐって「ぼろ」を収集してきた田中忠三郎さんと出会い、青森市郊外の倉庫にしまわれていた「ぼろ」の実物を見ることができた。それからまた1年たった去年には、幸運にもその出会いが1冊の本になった。(『BORO―つぎ、はぎ、いかす。青森のぼろ布文化』2008年、アスペクト刊)
 その「ぼろ」が、それも田中忠三郎さんのコレクションが、今度は浅草にやってくると聞いたとき、僕は耳を疑った。地元の美術館や博物館ですら完全に無視しつづけている「ぼろ」を、東京で? それに浅草にミュージアムなんて、あったっけ?

 浅草の中心である浅草寺。重要文化財になっている二天門のすぐ脇に、『アミューズミュージアム』がオープンしたのは今年11月のことだった。名前が示すとおり、運営母体になっているのは、あのアミューズ。サザンオールスターズからポルノグラフィティからパフュームまで抱える、一大音楽プロダクションである。


 築44年、もともと結婚式会場として建てられたものが、転々と店子がかわったあげく、デベロッパーに買い取られて再開発されるはずが、金融ショックで廃墟化、3年以上シャッターが下りたままだったのを、アミューズが買い取ったのが今年3月のこと。ずっと東京の左半分から流行を発信しながら、「浅草には芸能の神様がいるんだから!」という、アミューズの創立者である最高顧問・大里洋吉さんの独断だったという。
 いまでも毎日興行を続ける木馬館をはじめとして、浅草には伝統芸能の演芸館や、それを可能にしてきた人的資源のバックグラウンドが、豊かに生きている。そういう「芸能の聖地」で、新参者が乗り込んで、いきなり音楽や演劇で勝負を挑んでも難しいだろう。かわりにアミューズが、自身はじめての「箱もの」となるこの場所で選択したのがミュージアム、それも、「アクティブシニアに向けてのエデユテインメント」施設という位置づけだった。
 青森出身である大里顧問の、旧友のおじさんが田中忠三郎さんだった縁で、アミューズミュージアムには田中コレクションが常設的に展示されることになった。「正面切って"江戸"を扱っても、浅草には勝ちようのないものがすでにたくさんある、それよりも広く日本的な美意識を表現できるものを」というアミューズの求めに、それはぴったりのコレクションだったのだろう。





 廃墟化していたビルを徹底的にリノベーションしたアミューズミュージアムは、"ミュージアム"と呼ぶにはいささか派手な、最近の大規模商業施設のような外観である。1階のエントランスには、手ぬぐいなど"おしゃれ和雑貨"を販売するショップと、ヨーロッパから冷凍輸入されたパンを売るカフェ。2階が田中コレクションのうち「ぼろ」を展示するフロアで、「ぼろは間近で見て、触ってもらわなきゃ真価がわからない」という田中さんの英断で、すべての展示品が、自由に手で触れて、その重み、ぬくもりが確かめられるようになっている。




 3階にはこれも田中さんの長年の収集のうちから、文化財に指定されている刺し子コレクションや生活民具、また衣装協力した黒澤明監督の『夢』の衣装展示などもある。

 そこからボストン美術館の秘蔵コレクションをデジタル・プリントで再現した、浮世絵の名品が飾られた階段をふうふう言いながら上がっていくと、6階で袴姿のかわいらしい「織り姫」たちが出迎えてくれる。江戸時代の織り機を使った、はた織りや裂織りの実演を見せてくれるのだ。その脇には黒革のソファを配した、高級クラブのようなバー・スペース。さらに屋上に上れば浅草の全景や、押上のスカイツリーまでが見渡せる、すばらしい展望が待っている。「それにね、実は5階にも別のバーがあるんですよ」、と教えてくれたのは、館長の辰巳清さん。「5階のバーは、ミュージアムが閉まる18時から開店して、それもビルの裏口のインターフォンを押さないと入れないんですが、それで朝までやってるんです、大音量でジャズトロニックとか、かけながらね」。



 長年、アミューズで舞台製作に関わってきた辰巳さんにとって、ミュージアムの運営はもちろん初めて手がける分野だ。そしてここには、いわゆる「学芸員=キュレイター」と呼ばれる役職は存在しない(田中忠三郎さんが名誉館長に就任している)。

 さわれる展示、複数のショップ、カフェ、朝までやってるバー、それにかわいらしい織り姫まで……常識的なミュージアムからかけ離れた運営スタイルは、こういう人たちによって生まれた。アカデミックな環境で育ち、公立の民族博物館に勤めるようなキュレイターや学者たちは、こんなアミューズメント志向のシロウト・ミュージアムを、たぶん徹底的にバカにするのだろう。でも、そういう人たちなのだ、いままで「ぼろ」を徹底的に無視してきたのも。

 お話を聞いて、写真を撮っているあいだ、ミュージアムにはひっきりなしにお客さんたちが入ってきた。それも観光バスで乗りつけた団体客だ。平日の午前中だというのに、「いつも一日に250人ぐらいは、こんな団体が入るんですよ」と、辰巳さんはこともなげに言う。多くの公立ミュージアムが、週末ですら、それよりはるかに少ない入場者数に苦しんでいるというのに。

 お客さんの多くは中年女性たちだ。およそミュージアムらしからぬ、大きな声でおしゃべりし、笑いあいながら、「ぼろ」をひとつずつ全部触ってあるき、「あららー、この縫い目、すんごく細かいわねぇ」とか、「こんな腰巻、そういえばウチのおばあさんがしてたわ」とか、感嘆の声を上げている。ほかのミュージアムみたいに、展示室の隅のパイプ椅子にひざ掛け毛布の監視員がにらみつけるんじゃなくて、ここでは館長がみずから団体さんと一緒に歩き回り、「青森なんかでは寒すぎて、綿ができなかったんで、麻でねぇ……」なんて解説を、いやな顔もせず繰り返している。

 ひとを迎え、楽しんでもらうのは、コンサートも舞台もミュージアムも同じこと。なによりもまず、サービス産業なのだ。ここよりもはるかに立派な、税金でつくった博物館や美術館で、月給もらって"研究"している専門家たちが、ずーっと前に忘れ去ってしまったままの真理を、アミューズミュージアムのシロウトたちは、みんなよく知っている。

アミューズミュージアム
東京都台東区浅草2丁目34番3号
http://www.amusemuseum.com/


著者近影

都築 響一1956年、東京生まれ。現代美術、建築、写真、デザインなどの分野で執筆活動、書籍編集。93年、東京人のリアルな暮らしを捉えた『TOKYO STYLE』刊行。96年、日本各地の奇妙な新興名所を訪ね歩く『珍日本紀行』の総集編『ROADSIDE JAPAN』により第23回木村伊兵衛賞を受賞。 97年〜01年『ストリート・デザイン・ファイル』(全20巻)。インテリア取材集大成『賃貸宇宙』。04年『珍世界紀行ヨーロッパ編』、06年『夜露死苦現代詩』、『バブルの肖像』、07年『巡礼』、08年『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』など著書多数。現在も日本および世界のロードサイドを巡る取材を続行中。