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 この「生きづらい」時代だからこそ、希望の在り処を探りたい――。
 2009年10月24日(土)、新宿区早稲田奉仕園にて、弊社新シリーズ「双書Zero」の創刊を記念し、姜尚中、本田由紀、澁谷知美、中島岳志の諸氏をお招きして、『「生きづらさ」から日本を見る』と題するシンポジウムを行いました。

 「安定した仕事がなく、将来の展望が描けない」、「日々競争へと駆り立てられ、脱落することが恐い」、「一昔前の男らしさが、もはや色褪せてきた」……。
 不安、焦燥、苛立ち、鬱屈――。1年先すら見えないこの社会には、そのような「生きづらさ」が溜め込まれているのかもしれません。
 私たちは、いかなる「困難な時代」を生きているのか。いま、私たちを支えてくれるものは何か。
 そして、希望はどこに?

 シンポジウムの内容は、2回に分けてレポートします。




第1回 どんな人でも「大丈夫そう」と言える社会へ
――仲間・制度・ポップカルチャーの可能性

中島岳志
:このシンポジウムのテーマは、「『生きづらさ』から日本を見る―希望はどこにあるのか?」です。ここ3、4年の間で、以前とは比べものにならないくらい、格差や貧困問題の議論が盛んになりました。市場原理主義の弊害も広く認識されつつあり、政権もついに変わりました。私たちにとっては、政治的な要求をある程度実現できたようにも見えますが、しかし、それだけで「生きづらさ」が解消されるわけではない。そこで、これから私たちはどのように生きていけばいいのか、どのような視座がもてるのか、このシンポジウムで考えてみたいと思います。

「生きづらさ」と承認問題

中島:僕はこのたび、「双書Zero」創刊月の一冊として、『朝日平吾の鬱屈』を執筆しました。執筆のきっかけは、『論座』(2007年1月号)に載った赤木智弘さんの「『丸山真男』をひっぱたきたい――31歳、フリーター。希望は、戦争。」という論文です。その赤木さんの論文には、頻繁に出てくる言葉があります。「屈辱」です。田舎でフリーター生活を続ける僕には尊厳がない、屈辱的だと。このとき赤木さんは、誰からも「承認」してもらえないと感じている。この問題を考えると、たとえ何らかの政策によって、ロスジェネ世代に対する再配分ができたとしても、幸せにはなれない人がどうしても残ってしまうのではないかと思うんです。

















本田由紀:中島さんがお書きになった『朝日平吾の鬱屈』も、澁谷さんの『平成オトコ塾』も、とてもおもしろく拝読しました。お二人ともロスジェネ世代であり、「生きづらさ」の感覚を共有しているのだろうと感じました。ただ私は、若者の生きづらさをすぐに承認の問題に結びつけることには慎重でありたいと思っています。先ほど中島さんは、貧困や格差問題が認知されたことは、政治の一定の到達点だと言われましたが、私からすればそれは、高度経済成長から積み上げてきたものが崩れ去った後の、最初の一歩が踏み出せたか否かという程度です。

 澁谷さんは『平成オトコ塾』のなかで、「かつての生き方にとらわれずに、楽になろう」と繰り返し書かれていますが、そのように言われると、正直私は「そう言われても……」と返したくなる。現在のように将来展望がないなかで、楽に生きるにはどうすればいいのか。今までとは違う処世術があるのか。実現可能性のあるプランがないなかで、「いままでのこだわりを捨てていい」という澁谷さんには、「では、捨てた後にどうやって生きていけばいいの?」と聞いてみたい。

 中島さんの『朝日平吾の鬱屈』に関しては、朝日をとりまく当時の状況と、今の若者が直面する状況が重なると書かれた中島さんとは反対に、過去と今の違いが気になりました。朝日が生きた明治から昭和初期には、例えば朝日も労働運動に関わっていたように、社会をマクロ的に語る言葉があった。共産主義や社会主義も元気で、目指すべき将来像もあった。「天皇の大御心」というような、究極の価値もある。もちろん現在も、若者たちを中心に労働運動が盛り上がり始めています。でも、その先に実現すべき社会体制の構想がない。「天皇の大御心」のような、究極の価値もない。

 朝日がテロを起こす前に、下層労働者が安価に泊まれる「労働ホテル」の建設を提案していますが、この貧民救済事業はすばらしいと思います。今でもまったく古びていない考え方だし、現代にこそ必要です。この計画を実現するために、お金を貸してくれる財閥を探すところで朝日は壁にぶつかったわけですが、はたして今の若者は朝日のような行動をとれるだろうか。

 秋葉原事件のK氏にしても、携帯サイトに書き込んでいたのは、自らの辛さでしかなかった。社会構想もないし、究極の価値もない。そして起こした事件はといえば、財界人を殺すわけでも、自らの鬱屈を押し殺すわけでもなく、無関係な一般の人に刃をむけたわけです。変な言い方ですが、怒りを向ける矛先が明確にあった朝日にはまだ救いがあった。将来の見通しがまったく立たずに、モヤモヤした辛さにさいなまれる現代の若者は、どうすればその苦しみから抜け出せるのか。


姜尚中:先日僕は、江戸川乱歩の「人間豹」という作品を歌舞伎にしたものを観てきました。人間豹というのは、半人半獣の殺人鬼なんですが、死ぬときに「こんな虫けら一匹飼えない国はちっちぇえなあ」と言って息絶えるんですね。僕には、人間豹の姿が朝日に重なりました。

 本田さんが言われるように、現代の若者は、為政者や金融資本主義といった“悪玉”に鬱憤を向けるのではなく、一般の人を道ずれにして自滅しようとする。そうした犯罪が少なくない。そういう形でしか表せないような心象が、現代の若者にはあるということでしょう。

 ひと昔前なら明確だった政治の領分と個人の領分の区別が、いまはとても曖昧です。個人は政治の領域から切り離されてしまい、困難を抱え込まざるを得なくなった人は、あくまでそれを自分の問題としてしか考えられない。K氏について言うと、国会議事堂に突撃すれば政治的だけれども、彼にそのイメージはなかったと思う。おそらくK氏が秋葉原に向かったのは、自分に似ていると思える人たちが幸せそうにしていたから。その鬱屈は、犯罪でしか表せないと思い詰めていたのではないでしょうか。

 かつての自暴自棄な犯罪、例えば連続ピストル射殺事件の永山則夫や小松川事件の李珍宇(イ・チヌ)、旅館で人質をとって立てこもった金嬉老事件の金嬉老(キム・ヒロ)など、いずれも許されない犯罪です。しかし、そこには貧困や言われなき差別を受けている自らの境遇を社会に告発するという意識が明確にあった。そしてそれは我々にも了解できることでした。それに対して、いま起きている犯罪には理解できない部分がある。
たしかに現代は、昔のようなマルクス主義や一国万民の国家理念といったイデオロギーがないので、あらゆる言動に意味付けがしにくい。でも、だからといって、不可解な言動をすぐに精神病理学の対象にしてしまっては、もっと悲惨です。

 今年は冷戦が終結してから二〇年目です。数年前、東ドイツで半年ほど教鞭を執ったときに感じたのですが、冷戦崩壊後の東ドイツの若者も、日本の若者と一緒です。ドイツの左派政党であるPDSにもネオナチにも共感できない人がたくさんいる。冷戦崩壊によってユートピアが消滅し、彼らは途方に暮れているのかもしれません。そして政治について語ることも次第になくなり、政治から切り離された個人が勝手に自由を享受しようとする。そんなシニシズムが蔓延している。それは日本も同様です。冷笑主義が広まり、時代が変わる兆しが見えなくなり、苦しさばかりが募る。その感覚が、世代を超えて共有されているのが現代ではないかと思います。

















澁谷:先ほどの本田さんの質問に答えますと、私が言いたいのは、男性学の提唱者である伊藤公雄さんの言葉を借りれば、「『男らしさ』から降りよう」ということです。降りたあと、次に乗るものがないじゃないか、というご指摘は、その通りだと思います。確かに、ない。でも、次はこの乗り物に乗りなさいと私が言うのも変ですよね。それは男子のみなさんが見つけたほうがいい。そのときに必要なのが、仲間の存在です。ですから、既存の男の生き方からはじかれた男子たちは、連帯していかなければならない。『平成オトコ塾』の第1章で提唱した、「男の友情をつくろうよ」というのはそういう意味です。

 ここに興味深い調査があります。パートナーのいる男子と独身の男子のディストレス(憂鬱度)を計ったら、パートナーのいる人のほうが低かった。なぜなら、自分の思うことをパートナーに話せるからです。自己開示ができる。寿命にも差が出るとの結果もあります。でも、自己開示のできる相手は、同性の友達でもいじゃないですか。だから、連帯したらどうですか、と提案しているんです。

 承認の問題にも触れたいのですが、もちろん私も、承認は大事だと思います。承認には、仕事から得られる承認もあるし、具体的な人間関係から得られる承認もある。前者の承認は、今後再分配がうまくいけば満たされるでしょう。でも、後者の承認はどうか。私自身は、どのような手法であっても、完全に承認欲求を満たすことはできないと考えています。

 丸山真男の『日本の思想』に収録されている「思想のあり方について」を読むと、この講演がなされた1957年の時点で、「世の中にマイノリティ意識や被害者意識が蔓延している」と言っています。びっくりしました。すでに半世紀も前に今と同じような意識が蔓延している。丸山が言うには、社会が小集団に分かれていくことで、自分はマイノリティであるという被害者意識を持たざるを得なくなる。もはや、この流れは止めようがないと私は思います。そこに処方箋があるとしたら、マイノリティ意識は社会の成熟に伴い必然的に生じるものだという、相対化の視線を持つことではないでしょうか。

「疎外」について考える

中島:パネリストの皆さんが秋葉原事件に言及されたのは象徴的ですね。僕は、9・11の同時多発テロ以来の衝撃を受けました。K君は携帯サイトへの書き込みを残していたので、僕は事件の詳細を調べたんです。

 あの事件の三日前、K君は職場のロッカーに仕舞っておいた作業着がなくなったと言って怒り出し、仕事を放棄して帰ってしまいます。そして、そのまま出社しなくなる。僕が一番気になったのは、その翌日です。K君は、事件に使うラガーナイフを買いに福井県まで行く。そのナイフは、彼が住んでいた静岡でも、もちろん東京でも購入できるようなものです。それなのになぜ、新幹線と在来線を乗り継ぎ、店までタクシーを飛ばしてまで、福井にあるその店に行ったのか。

 その店の店員さんのコメントが残っています。「K君は店の中をよく知っているように見えた」、と。でも、K君はその店に行ったことはありません。そこで僕は、その店についてインターネットで検索してみたら、その店の親切な女性店員さんのことが話題になっていた。

 僕が調べた限りでその日のK君を再現すると、K君はナイフをもってレジに並び、店員さんに「会員カードはありますか」と聞かれたのを発端に、話がとまらなくなります。初めて来店したこと、静岡に住んでいること、出身は青森であること、青森の雪かきは大変なことなど、10分くらい店員さんに向かって話しています。その後、K君は店を出るのですが、再び店に戻り、今度は犯行に使った手袋を買う。そこでまた店員さんと話します。もう一度店を出て、また戻り、次は「タクシーはどこでつかまえることができますか」と聞きます。それで、ようやく帰る。その帰り道、K君は「人間と話すのっていいね」と書き込みをします。K君が福井まで出向いた目的は、人と話したかった、ということなのかもしれません。

 そして翌朝、「秋葉原で人を殺します」と書き込みます。そのあと、書き込みのトーンが変わる。「こんな俺にも一斉送信でメールを送れる人がいる、それが嬉しい」、と。つまり、承認の問題ですよね。K君には居場所がなかった。人との関係性から疎外されていた。K君が求めていたのは、自分が必要とされていると感じられる関係性です。もし、K君にそのような関係性があれば、犯行を思いとどまったかもしれない。だからこそ僕は、社会的包摂をどのように築いていけるかを問いたいんです。

本田:私はへそ曲がりなので、仲間だ、友情だ、コミュニティーこそ大切だ、という言葉が溢れると、かえって「そう?それでいいの?」と思ってしまう。社会的ネットワークが重要だという研究は、たしかに増えています。ですが、そうした研究を見るにつけ、私は「どうせいっちゅうねん」と思う(笑)。関係性を求めている子は、仲間に入れなかったからこそ、辛さを抱えている。そのような子に、どうやってネットワークを作れというのか。

 『ノンエリート青年の社会空間』(大月書店)という本があります。学歴がなかったり、待遇のよくない仕事をしている青年たちのフィールドワークをして、彼らの意識や生活に迫った本です。それを読むと、彼らは様々な方法で仲間をつくっているんですね。地元で仲間を見つけたり、引越し作業や自転車メッセンジャーなどの仕事を通じて居場所を築いている。

 今の若者の生活は、データで見るとひどい状況なのに、フランスで起きたような暴動が起こる気配がない。若者の多くが自力で居場所や仲間を見つけているからです。ということは、秋葉原事件みたいに突如怒りが爆発する人は、もともと仲間を持てずにいるわけです。そのような人に向けて、仲間が大切だとアドバイスすることには、パラドックスを感じます。空気を読んで、人間力を発揮して、友達を探しなさい、ということですから……。実は、私には友達がいないんですね。人間力がないから。だから、そういうアドバイスにむっとする(笑)。

 ならば、何がそうした人間を救うのか。社会制度だと私は思う。自分で居場所や仲間をつくらなくても、誰でも受け入れる組織や機関が社会のなかにあればいい。日本社会が小集団に分かれていくという話が出ましたが、その集団内の結びつきが強固で、しかも同調圧力が強い場合が多い。そうではなく、その集団にいつ誰が入ってきてもいいし、抜けてもいい。そんな緩やかな関係性――社会学の概念で言い換えれば「ブリッジ(架橋)」的な結びつき――にもとづく組織を、制度を変えることで、もっと増やしていきたい。それが、生きづらさの解消につながるのではないでしょうか。

















:いま話されているようなことは、60年代の終わりから70年代の初めにかけて、よく議論されていたことでもあります。そのとき中心的な争点になったのは、実存主義かマルクス主義か、ヘーゲル哲学か初期マルクスか、ということ。そこでのキーワードは「疎外」です。労働からの疎外、関係性からの疎外、自己疎外などについて考え、疎外のない真に本来的な状態はどこにあるのか議論していた。しかし、いまは「疎外」という言葉は使われません。代わりに「逸脱」や「病気」といった言葉が使われる。不可解な事件が起きると、お約束のように精神鑑定を行い、「犯人には善悪の判断がついている、だから極刑だ」という結論になる。極刑を免れたら、世間が許さない。K君の場合も同じでしょう。K君は、我々から疎外すべき人間だ、と。かつてのような相対的な疎外ではなく、絶対的な疎外が生じているように思えてなりません。


 本田さんが言われるように、K君のような人は関係性から排除されています。K君を排除すれば、自分たちの秩序や正義が守られると思っている。排除や極刑が正義だなんて、極めて転倒した考え方です。我々は、いまこそ疎外について真剣に考えるべきではないでしょうか。


「メディア系」と「シャカイ系」


澁谷:本田さんの「どうせいっちゅうねん」は、その通りだと思います。私も友人がいないんですね。これはコラムニストの深澤真紀さんの主張ですが、友人が作れない人には、サブカルを友達にすることを勧めたい。

 サブカルも、作品を通して送り手と受け手がつながっている、立派な人間関係です。メディアの世界に没入していて、現実の人間関係を築けないような人間は駄目だと言われがちですが、「それでもいいじゃん」という考えを広めたい。

 私も今年の夏は、予定がなくて部屋にいるときには、朝から晩まで東方神起のDVDを見ていました。1日16時間は見ましたよ。歌詞も踊りも覚えなきゃいけないし、韓国語も調べなきゃいけない。やることがいっぱいあって、全然寂しくない。この会場にも私のような人がいるかもしれない。その人と私は仲間なわけで、ここでももう一つ人間関係が構築されます。そういう考え方は甘いですか、本田先生。

















中島:本田さん、いかがでしょう。先ほど、控え室でスピッツが好きだとおっしゃっていましたが。


本田:サブカル、いいと思いますよ。……でもさ、もっと外を見ようよ。

 
 ボクとキミのごく私的な問題が、地球の運命を決するといった設定の作品を「セカイ系」と言いますよね。そこで私が思うのは、「セカイ系」から「メディア系」に行くのではなく、「シャカイ系」へ行こうよ、と。つまりは、「社会を見よう」と言いたい。社会を見ても、ごちゃごちゃしてておもしろくないし、泥臭いと思うかもしれないけど、それでも世の中に目を向けてほしい。


(第2回に続く)近日中アップ