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週刊文豪怪談 連載第5回 『幸田露伴集 怪談』スタンバイ!
東 雅夫

 猛暑お見舞い申しあげます。
 毎年この時季を迎えると決まって思い出すのが、文豪・幸田露伴の名作「幻談」冒頭に登場する、次のような名調子だ。


「こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。山へ登るのも極(ご)くいいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。その代りまた危険も生じます訳で、怖しい話が伝えられております。海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。」


 いかにも浴衣がけの文豪が、団扇を片手に寛いで語り始める姿を髣髴とさせるではないか。
 これはあながち私の恣意的な妄想ではない。
 この作品は昭和十三年、齢七十二歳を過ぎた露伴が、口述筆記によって起稿したものだが、担当編集者だった下村亮一の回想記『晩年の露伴』(経済往来社)によれば、その口述風景は、次のようなものだったという。


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「夏場のことだから、涼しい話でもと考えてみた。一つ思いあたったからやってみよう。日をかえてやってきたまえ」
 (略)
 八月の暑い日であったが、その日は階下の八畳の部屋に通された。その簡素な客室の床の間には、「露」の古びた掛軸が一つかかっているきりで、何一つないすがすがしいものであった。
 (略)
 露伴が床を背に、私がその前に坐り、中間に速記の机が置かれた。白絣の上布を着た露伴の前には、煙草盆が一つおかれ、翁が煙管で煙草をくゆらしながら、やおら語りはじめた。眼は射るように私を見つめ、まさに爛々として輝いている。これこそ露伴のいう青眼の対面というやつである。
 はなしは巧みな講釈師よりも、まだまだ巧みなもので、何の淀みもなくつづけられ、一時間以上が、またたく間にすぎた。内容は「釣」を主題にしたものだが、今まで全く類をみない、未知の世界の、しかも立派な小説である。


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 こうして完成したのが、露伴怪談の白鳥の歌ともいうべき名品「幻談」なのであった。
 そもそも露伴と怪談との関わりは古く、デビュー直後の明治二十三年(一八九〇)に発表された短篇「縁外縁」こと「対髑髏」にまで遡る。
 私見によれば、実はこの「対髑髏」こそ、近代日本で最初に登場した本格的な怪談文芸作品なのである。


 明治を代表する文豪の一人にして、近代日本における怪談文芸の開祖と呼んでも過言ではない巨人・露伴――本来なら「文豪怪談傑作選」の筆頭に持ってきてもおかしくない存在なのに、その登場が今回の第15巻目まで遅れていたのには、然るべき理由がある。













『幸田露伴集 怪談 文豪怪談傑作選』 8月9日発売!


 その荘重にして格調高き……現代の読者にとってはいささか格調が高すぎる(!?)文体の問題である。和漢にわたる博識の持ち主であった露伴の文章には、漢籍仏典などからの引用が、地の文に融け込む形で頻出している。往時はまだしも、漢文教育が等閑に付されて久しい戦後世代の読者にとっては、難解な漢語だらけの字面を一瞥しただけで、敬して遠ざけたくなるのは人情というものだろう。


 とはいえ難解なのは見かけだけで、いったんその懐に飛び込んでしまえば、「幻談」の名調子からも分かるとおり、露伴の語り口は実に流暢で、場面場面が鮮やかに浮かびあがる体(てい)のものである。漢語だの漢詩の引用など細かい点は気にせず、どんどん読み進めばよいのですよ、はっはっは……と、根が能天気な編者は毎年のように力説するのだが、対する冷静沈着な担当編集者のKさんに、「そうはいっても語注は必要ですよね。できれば漢詩の大意なども」と突っ込まれて、「また来年、考えましょうか」と腰くだけになるのが常だった。悲しきかな、編者の貧しき漢文の素養では、註釈を施すなど及びもつかぬことは目に見えていたからである。


 それが今年、ついに実現の運びとなったのは、頼もしい助っ人を得たからだ。
 小説家であり、近年は『ひとり百物語』連作など怪談実話の分野でも大活躍されている立原透耶さんに、本巻の註釈作業を監修していただけることになったのである。













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 実は立原さんの本業(裏稼業!?)は中国文学の研究者で、北海道の某大学で中国語の教鞭を執っていらっしゃる。露伴怪談集の註釈には、願ってもない適任者なのだった。
 かくして、立原さんの献身的なお力添えによって、怪談文芸の観点から露伴の小説とエッセイの代表作を一巻に集成するという未曾有の企画が実現できた。
 あとは8月9日の発売を待つばかりである。御期待ください。

















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