私の網野体験/上原善広

 大学生になるまで、勉強というものをほとんどしたことがなかった。
 小中高と落ちこぼれで、歴史の教科書は落書きだらけ。試験なしのスポーツ推薦で入った体育大学ではようやく「優等生」となったが、これは周囲が学に全く無関心だったからである。ただ大量の乱読と、社会運動にだけ強烈に偏っていたために、たまたま私はルポライターになったに過ぎない。
 よって網野善彦を読んだのはかなり遅く、多分二〇代後半だったと記憶している。
 私は路地(同和地区)の文献を片っ端から調べていたので、そのルートから網野体験をしたクチだ。だから知識としては、大変に偏っている。全体にという意味でもそうだが、網野に対しての知識という意味でも偏りがひどい。
 網野本を初めて読んだのは何だったか、もはや覚えていないが、ハッキリいって、何が書いてあるのかわからなかった。
 日本の歴史というものを、大学を出てから本格的に勉強し始めた私にとって、網野はまるで近寄り難い、難攻不落の岸壁に見えたものだ。
 ただわかったのは、網野が左寄りの学者であり、中世を専門としており、また路地の者(被差別民)は中世から存在したと記してあることだけだった。当時の私は、それだけわかれば満足していた。
 そんな二〇〇四年、たまたま入った書店で「網野善彦死去」と銘打って平積みになっていたのが、ちくまプリマーブックス版の『日本の歴史をよみなおす』であった。
 自分でも意外なことに、「難攻不落の岸壁」であった網野の死去は、私にとって少なからずショックであった。大げさにいうと、ソ連邦の解体のようなもの(左寄りの学者という意味で)だと思ったものだ。
 このとき『日本の歴史をよみなおす』は歴史書としては異例のロングセラーだというので、とりあえず買ってみたものの、この時点でもやはり「畏怖と賤視」の項以外は飛ばし読みである。いったいこれのどこが良いのか、私には相変わらず全くわからなかった。全然、面白くなかったのである。
 しかし今回、合冊した文庫になったものを読み返すと、やはり「畏怖と賤視」の項は読みごたえがあったが、その他の項目も非常に面白く読めたのが意外であった。網野はいったい何が言いたかったのか、何を伝えたかったのかがよくわかった。私にとっては、まさに「四十の手習い」である。
 物事を一から、つまり常識的なところからではなく、根本的なところから見直し、考えるのは非常に難しい。しかも体系化(常識化)された学問を学んだ者ならなおさらであるが、網野はそれに挑戦した学者であった。そうでなければ「百姓=農民ではない」などということが書けるはずがない。
 そんな網野だからこそ、難解な歴史考察を一般書でやさしく説くことができたのだと思う。それだけの余裕があったのだと思うと、網野をただの左寄りの歴史家だと思っている人は、読み手としては不幸な人である。
 本書の中身、解説についてはさらに詳しい人が書いているだろうし、私は日本史では賤民に偏っているのでその評価もできないが、逆に本書が私の「網野=中世の賤民」という偏見を取り除いてくれた名著であることは間違いない。
 また私が、学者としての網野の違った一面に感心したのは『古文書返却の旅』(中公新書)という本だ。これは網野本としては異色で、ただ日本全国、方々から借りていた古文書を返却していく過程を淡々と書いた本なのだが、網野のとても誠実な人間性が出ている。いってみれば『日本の歴史をよみなおす』の裏話だ。
 聖と賤論ではないが、まだ網野体験をしていない幸運な読者には、この二つの本を読むことをお勧めする。
 そうすることで網野善彦という稀有な歴史学者の表と裏を、読者は同時に知ることになるだろう。
(うえはら・よしひろ ノンフィクション作家)

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