《文化》への複眼的接近/金澤周作

 一九九三年、この本が山川出版社の「歴史のフロンティア」シリーズの一冊として公刊された年、私は西洋史学研究室に入ったばかりの学部三回生であった。近代史ゼミに所属したものの、広大な西洋近代世界のいったいどこの何にどのように切り込むのか、まったく定まらない。当時は現在なりわいにしているイギリス史研究に最初から的を絞っていたわけではない。たんなる無知を言い直せば、「タブララサ」だったのだ。
 この白板に「イギリス」を刻印するきっかけを作ってくださったのは研究室の助手さんで、私に三冊の本の存在を教えてくれた。グローバル・ヒストリーの先駆ともいえる松井透『世界市場の形成』(一九九一年)、マクロな世界システムとミクロな社会史を有機的に架橋した川北稔『民衆の大英帝国』(一九九〇年)、そして《文化》という切り口から豊穣なイギリス世界を描き出した本書、近藤和彦『民のモラル』。三者三様、まったく性質の異なる作品の読書は、私を魅力的なイギリス近世・近代の世界へいざなってくれた。その後の自身の歩みを振り返った時、この三冊が分水嶺であったと分かるが、なかでも『民のモラル』の切り拓いた道の先に、自分の琴線に触れる何かがあると感じて勉強を続けている。
 多少とも書く経験を積んだ今読みなおすと、その構成の妙、文体の緩急、堂々たる叙述の幹、差し伸べられる枝葉の多彩さに圧倒される。序盤の意外性に満ちたエピソード「女房売ります」で一挙に読者を近世イギリス世界に引き込んだあとは、ホーガースの図像を絵解きしながら一筋縄ではいかない多面的で猥雑な現実に注意を促し、それを丸ごと理解するための方法、《文化》の歴史学を噛んで含めるように教えてくれる。イギリス近世という時空間の「与件」あるいは「常識」となっている約束事(政治文化――世の中はどうあるのか、人はいかにふるまうのか、ある言動・身振り・図像・状況はどのように解釈されるのか、といったことを規定するゆるやかな共有ルール)への接近法を、読者が興味を切らさず自然に必要な知識を吸収して次へ進めるような仕方でガイドしてくれる。その導きの足取りは軽やかではあるが、すこぶる正確だ。「いじめ」や「一揆」や「食糧の強制販売」のような、民衆の特異に見える行動を理解し「政治文化」に肉薄する前提として、タイミングよく簡にして要を得た政治史や地誌や国家・社会制度の解説が、くさびのように随所に打ち込まれ、本書を引き締める。
 十八世紀中葉のある食糧一揆の解釈をすすめる中盤では、レベルの異なる複数の史料の分析と、関連する文脈の構築を組み合わせた、お手本ともいうべき、歴史学の醍醐味を堪能できる議論が展開される。正確な背景知識と土地勘に裏打ちされ、想像力も駆使して、音と映像と息遣いと匂いと思いの数々が立ち上がってくるかのような、見事な叙述の運びである。
 そのようにして私たちの前に示される《文化》は単一の「イギリス文化」などではない。エリート文化と民衆文化という対抗的文化でもなく、多様なことをただ寿いで済ます「多」文化でもない。併存するが相互に作用し変化し続ける、そしてさまざまな歴史を参照しかつそれに規定される「二つの文化=世界」の複合体である。終盤ではふたたびホーガース作品を素材にして、このことが多方面から確認される。「おもての世界」と「うらの世界」、啓蒙的モラルと「民のモラル」、合理と不合理、男と女、統治と恭順、勤勉と怠惰、規制と反抗、具体と象徴……。こうしたコントラストを多数含みこむ過渡期のイギリス世界が、《文化》の歴史学の実践によって、鮮やかな現実性を保って読者に迫ってくる。
 最も印象付けられるのは異なる筋道を同時に視野に収めんとする著者の強靭な複眼的思考である。著者が、ディテールを凝らした確信犯的に多義的なホーガースの図像作品に魅了されたのもむべなるかな。畢竟、『民のモラル』はそのような絵画的な歴史書にほかならない。それだけに、読後感も鮮烈で、色彩はいつまでも残るであろう。そう、私の「タブララサ」は取り返しのつかないほどの刻印をほどこされたのであった。
(かなざわ・しゅうさく 京都大学准教授)

ちくま学芸文庫
民のモラル――ホーガースと18世紀イギリス
近藤和彦著 1300円+税

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