あみ子の世界がふたたび/瀧井朝世

 その作品は、二〇一一年一月に単行本が刊行される前からちょっとした話題になっていた。おそらく全文が掲載されている『太宰治賞2010』を先に読んだ人や、先にゲラで読んだ書評家や書店員が噂にしていたのだと思う。作品の名は「あたらしい娘」、のちに改題されて「こちらあみ子」。今村夏子さんの太宰治賞受賞作だ。私は単行本化されたものを読んだが、受賞作も同時収録の短編「ピクニック」も、期待が最大値に膨れ上がっていたにもかかわらず、予想以上に打ちのめされた。
 表題作の主人公は、現在田舎で祖母と暮らすあみ子。十五歳までは両親や兄と一緒に暮らしていたというが、いったい何があったのか。そこから時間は遡り、彼女が小学生だった日々が綴られていく。父の再婚相手である母親が自宅で開いている書道教室をこっそりのぞき、墨汁と新聞紙の匂いにもよおしたり、ベランダからの物音を幽霊だと思い込んで怯えたり。そこには、全方位で五感を鋭敏にさせ、そして自由に反応させることができる少女の世界が広がっている。やがて読者は気づく。どうもこの子は状況をとらえることをせず、思いのままに行動し感情を露わにしているようだ、と。いくら子供だからといっても常識から外れているとしか思えない。つまり、あみ子は、そういう子なのだ、と。
 なにより素晴らしいのは、三人称一視点で、あみ子の目を通して見える世界“のみ”が描かれていることだ。父も、新しい母親も、兄も、あみ子には誠実に接している。それでも勝手なあみ子に苛立つ様子が、少女本人は気づかないのに読者には伝わってくる。また、彼女が何かの医学的な問題を抱えているのか明らかにされない点も秀逸だ。もし例えば発達障害とのラベルを貼られていたら、発達障害以外の読み手は自分とは違う人の話だと思ってしまうかもしれない。そうではなくカテゴライズを避けたことによって、読み手はあみ子に寄り添っていける。自分の気持ちを的確に表現できず、周囲に理解されない彼女の姿、悪気はないのに大好きな人たちを傷つけてしまう姿、壊れたトランシーバーで誰か、あるいは何かと繋がろうとする姿に、幼少期、あるいは現在の自分の姿を重ね合わせる人はいるはずだ。少なくとも私はそうだった。だから、胸がしめつけられるような感覚を味わうのだ。
「ピクニック」はローラースケートをはいて接客をする飲食店に勤める女性たちの話で、主語はなんと「ルミたち」。新入りの恋愛話に耳を傾ける「ルミたち」の内面が分からず、読者は置いてけぼりな気分を味わうが、後半意外な事実が明かされる時にはすっかり「ルミたち」の一員の気分だ。
 この二篇をおさめた『こちらあみ子』は、視点の取り方やそこからの世界の展開のさせ方の巧さが大変話題となった。あの当時は作家なり書店員なり本読みの人に会うと合言葉のように「あみ子読んだ?」「読んだ読んだ」という言葉が交わされた。そうこうしているうちに、五月には三島由紀夫賞を受賞。ネットで生中継された受賞者インタビューに電話で応じた今村さんは、今後の展望について「書きたいとかはない」と語り、受賞にわく読者たちをがっかりさせた。
 だがしかし。このたびの文庫作品には書き下ろし「チズさん」が収録されている。語り手の「私」は独り暮らしの認知症の老婦人チズさんの家に遊びに行っては一緒にスーパーに出かけ、児童公園を散歩する。次第にチズさんよりも「私」の存在感の希薄さが気になってくるのだが、チズさんが誕生日を迎えた日に変化が起きる。ここにも世界と上手に繋がることのできない人がいて、ああ、あみ子の著者だ、と嬉しくなる。
 解説は三島賞授賞時の選考委員でもあった町田康氏。さらに、新聞に掲載された穂村弘氏の書評も収録されている。未読の方はもちろん単行本を愛でた方々も、手にとって損はない。
(たきい・あさよ フリーランスライター)



ちくま文庫
こちらあみ子
今村夏子著 640円+税

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