下戸も楽しめる『居酒屋の誕生』 /松下幸子
多数の資料に基づいて、数年をかけて真摯にまとめられた本書は、江戸の居酒屋についての本格的研究書でありながら、わかりやすい読み物でもある。豊富な挿絵は、写真のなかった江戸時代の居酒屋の光景を見ているような気分にさせてくれる。内容は十七の章から構成され、各章はいくつかの項目に分けて記述されているので、江戸の居酒屋の発展していく過程が理解しやすい。私は江戸の食文化を研究対象にしているが、食生活や料理についての出版物は多い中で、居酒屋の歴史について書かれたものは見当たらず、本書によって教えられることが多かった。
序章の「江戸の居酒屋の繁盛」の中で、文化八年(一八一一)の江戸での調査では、一八〇八軒もの居酒屋があり、人口比率で五五三人に一軒の割合になり、平成十八年(二〇〇六)の東京での調査では、居酒屋(酒場・ビアホール)は五四六人に一軒の割合であり、文化八年の江戸とほぼ同じような人口比率になるとある。詳細は序章に記されているが、約二〇〇年前の江戸と平成の東京で、居酒屋の数が人口比率でほぼ同じということには驚かされる。「酒は愁いの玉箒」(酒は心の愁いを掃き去る美しい箒)という言葉があるというが、玉箒を必要とする人々の数は、いつの世でも変わらないということだろうか。私は下戸なので玉箒を用いたことはなく、居酒屋体験は皆無なのだが、本書を読み居酒屋で楽しむ人々の挿絵を見ていると、下戸でも愁いを忘れて楽しくなる。
本書によって居酒屋の発展を概観してみると次のようになる。江戸の町は徳川幕府の開府によって城下町として急速に発展したので労働者が多く、江戸時代初期から酒屋があり、酒屋で量り売りする酒を店先で飲ませるのを居酒とよび、江戸時代中期には居酒を本業とする居酒屋が誕生した。
一方で、明暦の大火(一六五七)後に出来た煮売茶屋(煮物を中心に簡単な食事と湯茶・酒などを出した茶店)は、社会の需要もあって繁盛し、酒を出す店が増えて煮売酒屋とよばれるようになった。煮売酒屋と居酒屋は区別されていたが、居酒屋が酒の肴を充実させるにつれて区別がつきにくくなり、両者をあわせて煮売居酒屋という業種ができ、これが江戸の居酒屋になる。
それでは居酒屋の酒の肴にはどのようなものがあったのだろうか。本書には「居酒屋のメニュー」の章があって詳述されている。文化年間(一八〇四―一八)の居酒屋のメニューには、ふぐの吸物、しょうさいふぐのすっぽん煮、鮟鱇汁、葱鮪、まぐろの刺身、湯豆腐、から汁、芋の煮ころばし、などがよく見られるとある。庶民の利用する居酒屋に、現在は高級魚のふぐの吸物があるのはなぜか、葱と鮪を煮て食べる葱鮪や鮪の刺身など、鮪がよく使われているのはなぜかなどは、それぞれの項目で読んでいただきたい。
居酒屋のメニューによく見られる料理が、江戸時代の料理書に登場することは少ないが、庶民の日常の惣菜としてはよく使われている。たとえば「から汁」は『東海道中膝栗毛』の「発端」の中で、旅立つ前の弥次・北(喜多)が住んでいた神田八丁堀の長屋での食事のおかずに「むき身から汁」が見られる。から汁は豆腐殻(おから)のみそ汁で、雪花菜汁、卯の花汁ともいい、嘉永二年(一八四九)刊の料理書『年中番菜録』に、きらず汁として次のように作り方がある。「ほそ切の油あげ 午房さゝがき こんにゃくなど通用のかやくなり 吸くちせり 三ッ葉 山せう ねぎの類なり 酒の吸ものにしてよし ていねいにすれば すり鉢にてよくすりてつかふべし」
番菜とは惣菜のことなので雪花菜汁も取り上げられているが、庶民の食生活を知るには居酒屋の肴は貴重な史料になる。
下戸の身なので、酒よりも肴の話が多くなったが、肴は酒の添え物、江戸の酒と飲み方については、本書は肴の何倍も詳しい。(まつした・さちこ 千葉大学名誉教授)
飯野亮一著
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