遠い地平、低い視点/明けない夜

 衆議院が解散しましたですね、という時期にこれを書いています。この文章が陽の目を見る頃には選挙の結果も出ているわけで、つまらないことを書いてもしょうがありませんが、一方では「大義なき解散」と言われるものが、解散権を発動した人の口から出ると「アベノミクス解散」になって、「他のことは考えるな、私の経済政策のよしあしだけを考えろ」という方向付けも生まれる。大多数の人は「景気は悪くなるよりよくなった方がいい」と思っているから、「少しはよくなったのかもしれない」と思われる首相の経済政策は否定しづらい。だから「経済政策が肯定されたから、私の政策方針のすべてが肯定された」という方向に、解散権を発動した人は持って行きたいんでしょう。でも、「問題は経済政策以外のところにある」と思う人の声だっていくらでもある。野党が「アベノミクス批判」をすると、「問題はその他のところにある」という声は行き場を失ってしまう。「経済」という大きなものを人質に取っていると、好き勝手なことが出来るというようなことであるのかもしれない。「経済を人質に取る」ということと、「国民生活を人質に取る」が同じかどうか(その結果がどうだったのかは分かりませんが)。

「とても大きなものを人質に取っている」で言うと、香港の学生デモと中国全人代の対立も同じようなものに思えます。

「香港行政府が中国本土と違う形の統治をするのは認める。でも、香港行政府の長官は、中国本土政府の意向に沿う人物しか認めない」というのは、これを決定した中国全人代の中では矛盾した考えではないんでしょうね。でも、香港の学生達は「我々の意向を反映した候補が行政府長官の選挙に立候補出来ないのは民主的ではない」と抗議をする。でも、自分達の考え方を「矛盾していない」とするのが全人代の中国政府なんだから、学生デモ隊との間に「対立」が存在することを認めない。しかし、本土政府は香港の学生達が「民主化」を要求していることを知っていて、これを弾圧すると国外からの非難の嵐が起こることも知っている。だから、学生デモ隊を「秩序を乱す輩」と言いはしても、これを一掃するために戦車を出すことは出来ない。

 一九八九年の天安門事件の時には、まだ「外国から見られている」という意識が中国政府になかったんでしょうね。だから「秩序を乱す輩」に戦車を出して、「戦車を出させた犯罪者」を追いかけることは今になってもやめていない。でも、世界の眼が向けられていることを知って、世界から注目されたいとも思って、「我々はもう民主国家をやっている」という建前になっている現在では、香港の学生デモに対して戦車を出せない。だったら、香港の学生デモは、どのような形で「解決」あるいは「終焉」という方向に向かうのだろうか?

 学生達が一時的に撤退したとしたって、中国が現在の「中国」のままである限りは、学生デモが再び起こる。起こらないように、行政府が思想教育をしようとしたら、それをきっかけにしてまたデモが起こる。でも、中国政府は絶対に譲歩なんかしない。香港の学生達の民主化要求を一部でも聞き入れたら、中国全土に存在する民主化要求の反政府勢力に火をつけて、収拾がつかないくらいの混乱状態に陥ってしまう。だから中国政府は譲歩しない。中国政府は「中国全土の平らかなる統治」というものを人質に取っているから、譲歩の必要を認めない。それで、香港の学生達と中国本土政府は、永遠に不仲な夫婦の家庭内別居のように、睨み合うことになるのではないかと思い、昔に言われた「明けない夜はない」という言葉を思い出す。

 今の中国政府が民主化要求なんてものを受け入れたら、中国政府がバラバラになって大変な騒ぎが起こる。でも、民主化要求を受け入れないままでいても、ろくなことは起こらない。だから「どうせそんなことはしないだろう」と思いはするけれども、今の中国政府には、「民主化されても中国が困ったことにならないように、人民を教育する」という選択肢しかないんじゃないかと思う。

 今のままで民主化の要求を容れれば、「自由」を求める人の数ばかりが増えて大変なことになるのは決まっているから、「自由」と同時に「民主的社会を担う責任と義務」を教えるしかない。民主化の後に混乱が待っていて、それを収拾するのは独裁政権だけという下らない繰り返しを脱する方法は、みんなの頭が少しずつよくなるということにしかないように思う。「民主的であろうとなかろうと、まともな社会は自分達が担うことによってしか成立しないから、その義務と責任を自覚する」ということからしかすべては始まらなくて、そういうことが「明けない夜はない」ということなんだろうと思い、それを放棄した時、誰の得にもならない長い夜は長い夜のまま続くのだろうと思う。

橋本治(はしもと・おさむ 作家)

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