西洋思想との格闘の軌跡/先崎彰容
私たちは何のために、本を読むのだろうか。また本を書くのだろうか。たとえば、秀才の意見に耳を傾ける。すると、偏光グラスをかけたようにこの世界を明確に色分けでき、理解した気分になる。知識を武器に世界を批評し、わが国の現状はこうだ、だから今後はああすべきだ――今、日本はこんなふうに言ったり書いたりしている本ばかりだ。
だが本当のことを言おう、本書の著者はこう書き始める。この世界には何一つ意味などない。私が本を読む理由などないのはもちろん、そもそも生きている意味もないのだ。分からないことがあると、人はふつう辞書を引く。しかし辞書に書いてある「意味」自体が本当などと誰が決めたのか? 嘘かもしれないではないか――人間にとって信用とはそのくらい、もろく、そして危ういものだ。
こうした懐疑は、特に思春期に多く訪れる。そのことを知悉した著者は、明らかに想定読者を若者においている。「いまの学生にこう伝えたい……「人生には無限の可能性はない」。しかし、「無限の存在へと近づく可能性」は健全すぎるほど健全にある」(一〇頁)と。だからやはり、本書は私たちが生きるための書、倫理学の書物なのだ。
キーワードを見ていこう。著者が強調してやまないのは「向こう側」「こちら側」という言葉である。私たち、特に東洋の特徴は、「こちら側」のみで思考を組み立てる傾向にある。だがたとえばリンゴの味が明日には急転直下、ローストビーフの味に変わるかもしれないように、私たちの生きている常識は、ある日突然、崩壊変化する(四三頁)。味の激変なら笑い話で終わることもできよう、だがこれが、明日には眼前の風景がすべて瓦礫に化す、という意味だったらどうか。私たちはそういう経験をつい三年前にしているではないか。
この時、私たちは、どうしても強いられて「向こう側」について、日常生活とは無関係にみえる「普遍性」(四三頁)について考えざるを得なくなる。「向こう側の根拠ににじり寄り、向こう側から直観を得、向こう側に超越する。こちら側だけでは普遍は完結しないのだ。こちら側の無根拠に耐えながら、いかに向こう側の根拠に近づくか、その営為が学問というものである」(一七七頁)。
この文章を読んで私は愕然とした。著者の熱い思いに打ちのめされると同時に、問題意識の深さに目を背けたくすらなった。著者は生易しい西洋哲学概説書を書くためにフッサールやデリダを引用しているのではない。必要にかられて、西洋哲学を繙かざるを得なかったのだ。なぜか。なぜなら西洋哲学が、「向こう側」について、私たちの不安定な足場のその奥にあるかもしれない「普遍性」について最も深く思索してきたからだ。格闘の歴史があるからだ。それを参照せざるを得ないからこそ、著者は何者かに促されるように、西洋思想を読まざるを得なかったのである。
「こちら側」の自律性を主張するあまり、神の存在を危うくしたカント。だが啓蒙哲学が広まれば広まるほど、自分で一切を決定することへの「不安」が支配し始める。その極北がロマン主義であり、そのロマン主義を批判する苦悩のなかからヘーゲル哲学は誕生したのだ(以上、五二―五四頁)。
こうした哲学的議論は、実は私たちの日々から出発し、そして日々の生活に帰って来る。世界中に普遍妥当する基準が失われ、小さな秀才ばかりの時代となり、何かしたいけど目標がない時代に、私たちが生きるヒントとは何か「向こう側を探りながら、いままでとは別の機構を打ち立てていくという、「機構学」の発想転換が必要なのではないか」(一二八頁)。
作者自身の、西洋思想との格闘の痕跡とこの提案そのものが、現代社会論であり若者へのメッセージになっていること。これが本書の最大の魅力なのである。
(せんざき・あきなか 東日本国際大学教授)
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