遠い地平、低い視点/「バカ」という抑止力


「脱法ドラッグ」を「危険ドラッグ」と言い換えた時のことです。私は「そんな変え方したってやめるわけないんだから、これからは“脱法ドラッグ”を“バカドラッグ”に言い換えればいいんだ」と、一人でいきまいておりました。いきなり「バカドラッグ」と言ってもしょうがないので、この連載の初めの方では「毒ドラッグ」という中途半端な言い方をしてしまいましたが、やっぱり「バカドラッグ」です。「バカがやって、バカになる、バカドラッグ」というコピーが、一番手っ取り早く分かりやすいと思います。だってホントに、「バカがやってバカになる」なんだから、「バカドラッグ」に間違いはないですよね。

 前に「“オレオレ詐欺”とか“振り込め詐欺”じゃ、新手の詐欺に対応出来ないから、年寄りにも分かるような新しい呼称を考えよう」ということになって、「母さん助けて詐欺」というネーミングが生まれましたが、すぐに忘れられました。忘れられるより早く、そう決まったと聞いた途端、「そんなもん頭に入るわけないだろ」と私は思いました。なにしろ対象は「振り込め詐欺に引っかかる年寄り」で、そんな長ったらしいネーミングが頭に入るわけない。「どうして“言い換えを考えよう”になると、すぐに忘れられて効力のないものしか選ばれないのか」と、私はそのお上品な選び出し方が不思議ですね。

 そりゃやっぱり、「バカドラッグ」という言い方はあんまり広まらなかろうと思いますよ。「バカがやって、バカになる、バカドラッグ」も、「ホントだ」と思う人はいくらでもいるだろうとは思うけれど、やっぱり流通しなかろうとは思いますね。なにしろ「バカ」だもの。お上品な人達はそれを避けて、だからこそバカなやつらは自分のことを「バカ」だとは知らぬままに生きてしまうのですけどね。

「危険」という言葉に抑止力はないと思いますね。「危険」はただ「注意を促す言葉」で、「危険」と言われたって、「そんなの知ってるよ」で平気な人間はいくらでもいる。だから「危険」と言ってるドラッグに手を出す人間はいくらでもいる。自転車に乗ってる人に「危ないよ」と言ったって、「平気だよ」の言葉しか返って来なかったりする。「自転車に乗る」ということは、「俺は自転車でどんなものでもヒョイヒョイかわせちゃう」という方向へ行くことでもある。だから、車道をビュンビュン飛ばしてる自転車に「危険だよ」と言っても、乗ってる人間は自分に自信があるから、平気で車道をビュンビュン飛ばす。「危険」を承知している人間は、違法であっても車道に出ない。だからと言って、私は自転車に乗っている人間を「バカ」だとは思わない。「そういうもんだからしょうがないな」と思う。

 それに引き換え、「バカ」という言葉には十分な抑止力がある。だから、人は「バカ」と言われると怒る。今時、それだけの力を持った言葉は「バカ」だけで、だからそのインパクトを削ぐために、今や人は「バカ」の前に「お」を付ける。「おバカ」と言って言葉の持つ力をやわらげてしまうと、「おバカ=なんとなく可愛らしい感じがするもの」になって、人は平気でバカ丸出しになる。「バカ」という力を持った制止表現がなくなると、人は自分の「バカ」に気がつかなくなる(らしい)。だから日本は「バカばっかり」になっちゃったんだろうなと、私は思う。

「バカ」を「おバカ」と言って中和した結果、日本人は大切なものをなくしてしまった。それは「恥」の感覚ですね。

「バカ」と言われりゃ、少し以上たじろぐのに、「おバカ」になったらたじろがない。「バカ!」にはエクスクラメイションマークがつくが、「おバカ」にはつかない。下手すればハートマークがついてしまう。「バカ」が「おバカ」になって、バカがたじろがない結果、「バカでもいいんだ。バカってたいしたことじゃないんだ」と思って、「バカな自分を恥じる」という感覚をなくしてしまう。「恥」の感覚をなくしてしまうということは、知性にとっての危機なんですけどね。それで日本はやばいことになっているんだと、私は本気で思いますけどね。

 でも、日本人が「バカ」と言われることを恥じなくなったわけじゃない。「バカ!」と言われれば、明らかにたじろぐ。「バカだったらやばい」という感覚は、まだ十分に日本人の中に生きている。だからそれを「おバカ」だなんて、つまらない言い換えをしない方がいいと思う。

 なんで「バカ」じゃいけないんだろう? 「危険だからやめましょう」と言われるよりも、「バカがやって、バカになる、バカドラッグ」の方がずっと大きな抑止力になると思うのは、「バカ」と言われないことにあぐらをかいている人間がそんなドラッグに手を出すからだ。

橋本治(はしもと・おさむ 作家)

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