中原中也の贈りもの/菅野昭正
お前は意識家だと思ってるかもしれないけど、本当は無意識家なんだぞ……。
中原中也との波瀾曲折の絶えまない交友をめぐって、大岡昇平の残した数々の回想のなかで、これはとりわけ忘れがたい一言である。大岡さんの小説と限らず、評論や随筆を読んでいるうち、ふとこの面罵に類するような評言が思いうかぶ瞬間は、ふりかえってみれば少なくなかった。それにはもちろん然るべき理由がある。この辛棘な一言がすっかり肯綮に当るとはいえないまでも、しばし考えさせずに措かないものがそこに含まれているからである。
相手かまわず、遠慮会釈なく痛烈な直言を浴びせる詩人の性癖について、熱心に追惜するのを怠らなかった大岡さんにとっても、抜打ちふうにいきなり斬りつけてきたこの一言は、特別な記憶を残す性質のものであったろう。外界の事象にたいして、他人の言動にたいして、また何よりも自分自身のなかに起伏する感覚や思考にたいして、いつも明快な理解をめざしているという大岡さんの自負は、そのとき大きく揺るがされたのではないか。「明瞭でなければ私の世界は崩壊する」というスタンダールの格率を、大岡さんが好個の模範と見ていたことはよく知られている。
スタンダールの存在はたしかに重要だが、しかし明快な理解への道は、それ以前からすでに開かれていることは開かれていた。一九三三年の日付けをもつスタンダールとの出会いは、大岡さんにとって画期的な事件だったが、それが掛けがえのない重大な意味をもたらしたのは、明快な理解をめざす意志を飛躍的に高め、動かしがたい鞏固なものとしたからである。取りくんでいる対象がどういう種類のものであれ、解明すべきものはすべて、認識の網に組みいれようとする姿勢そのものが変ったわけではない。ただ、そこで強力な後ろ楯を得て、意識家としての自覚が格段に深められたのだった。意識家たろうとする姿勢は、いわば大岡さんの資性に根ざしていたのである。
しかし標的にした対象が何であるにせよ、関連する問題をすべて認識しつくす完全試合は、そう易々と達成できるものではない。どこかに欠落とか不備が生じるのは避けられないし、大岡さんといえども例外になることはできなかった。慧眼な中原がそれを見落すはずはない。大岡よ、お前はひとまず上出来の認識を手にいれたと意識しているかもしれないが、そこにはまだ欠落もあれば曖昧さもある。お前はその欠陥に気がつかず、平然としていられる無意識家なのだ……。
大岡さんはその毒舌めいた批判に多少とも反撥は感じたかもしれないが、それよりもおそらく率直に受けとめるほうが賢明だと考えた。そして、意識家としての認識の能力をもっと研ぎすます必要がある、と。この推量は的はずれではないと思うが、そうとすれば中原の辛棘な言葉に傷つくどころか、それを一種の跳躍台のように活用することを選んだのだとも言えよう。つまり、無意識のまま残された欠落や曖昧をなるべく少なくして、論理性・合理性に裏づけられた思考を可能なかぎり追跡する方向へ、それ以後ますます深く踏みこむことを意識するようになったのだ。
大岡さんの小説を支えてきた方法はおよそのところ、そんなふうに組みたてられてきた。どの小説をとってみても、ほとんどすべて精練された模範的な堅さに達しているのは、大事な基礎の部分でその方法がたしかに躍動しているからである。大岡さんが補筆や改稿を何度も重ねたり、また参照すべき資料がある場合には、調べ魔といわれるほど調査や検討を加えたりしたのは、もちろんその方法と関連している。こうして大岡さんの小説は、二十世紀後半の日本の文学のなかで独歩の卓越した地位を占めることになった。中原の揮った痛棒は、思いがけぬ効果をもたらす貴重な贈りものに変現したのである。
(かんの・あきまさ フランス文学・文芸評論)
小説家 大岡昇平
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