広くて深い、ドキュメンタリー映画の世界/原一男


 私は、映像系の大学等で映画作りを学んだわけでもなく、ましてや理論的な知識を習得した上で映画作りを始めたわけではない。縁は異なもの、という。二十代の頃、報道写真家を目指していた私が、一人の女性と出会ったことから人生設計が大きく進路変更、映画の道へと嵌まり込んだ。しかもドキュメンタリーの道。全くの独学、我流で作り始めた。とはいうものの写真を勉強していたので、実際にドキュメンタリーを作ることになったとき、写真の理論的なことを映画に応用することで乗り切っていったと思う。二十代で、技術的、理論的には未熟なまま二本の作品を作り、三十代にピンク映画を皮切りに街場の現場で、喰うために働きながら、技術を実践的に学んだ。そして三十代の後半から五年越しで「ゆきゆきて、神軍」を完成。四十代になっていた私は、その年齢になって、やっと本格的に映画理論を勉強したくなった。そこで応募したのが「文化庁一年派遣芸術家在外研修員」という制度。何とか面接をパス。一九九一年十二月、意気揚々とニューヨークに乗り込んだ。

 ニューヨークでは、週一度、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の映画部門に頼み込んで収蔵作品を見せてもらった。私はこの時の体験を生涯忘れることはないだろう。ここでは古典に力を入れているのか、初期の名作傑作といわれる作品のほとんどを収蔵している。その数、七千本と当時聞いた。十六ミリでの保存がメインだが、一回につき三、四本を借り出して小さな映写スペースで自分でフィルムを映写機にかけて見る。映し出されるスクリーンのサイズはホントに小さなもの。それでもカタカタと音を出してフィルムが回り始めると、「ニューヨークのMoMAの特別な計らいで、しかも一人で、見たいと欲した作品を自由に見られるなんて、ああ、私はなんと幸せなんだろう!」と鳥肌が立つくらいに感動してハラハラと涙を流したのだった。ルイ・リュミエール「工場の出口」、ロバート・フラハーティ「ナヌーク」、ジガ・ヴェルトフ「カメラを持つ男」、リーフェンシュタール「オリンピア=民族の祭典」、ヨリス・イヴェンス「雨」etc、みんな、ここで見たものだ。

 この貴重な体験があったからだと思うが、もっと理論的に勉強をしなければ、と考え始めた。その後、会う人ごとに「何か、いいテキストになるような本を教えて」と頼んだ。そうして出会ったのがバーナウの『ドキュメンタリー映画史』だった。MoMAで見た作品の記述が出てくると訳もなく嬉しくなった。まるでガキみたいじゃないか、と苦笑してしまうのだった。が「うわあ、こんなにも見ていない作品があるんだ!」と内容の圧倒的なボリューム感に打ちのめされたというのが正直なところ。だが、MoMAで主要な作品を見た体験が、この本の記述に親近感をもたらしてくれた。世界的古典については記述も豊富だし、先人たちのドキュメンタリーに懸ける情熱というものがビンビンと伝わってくる。日本の作家はどうかな? 亀井文夫「日本の悲劇」、羽仁進「絵を描く子供たち」、市川崑「東京オリンピック」、牛山純一「南ヴェトナム海兵大隊戦記」、大島「忘れられた皇軍」、そして小川紳介「三里塚」、土本典昭「水俣」etc。今村昌平は抜けているし、個々の作家や作品の紹介は欧米のそれと比べると圧倒的に少ない。東洋の島国の作品なんて、こんな扱いなんだ、とちょっと残念。

 それはそれとして、この労作は私にとって“ドキュメンタリー映画史を旅する時”の最良のガイドブックであり続けた。私が所有している版は昭和五十三年の発行だ(『世界ドキュメンタリー史』、風土社刊)。今、改訂版が新訳で三十七年ぶりに発売される。旧版でさえ、まだ見ぬ作品が山ほどあるというのに、第六章が新たに書き加えられ、さらにさらにまだ見ぬ作品がドーンと増えている。ふーっ! 一生かかったって見切れないなあ! 世界は広くて、そして深いのだ!

(はら・かずお 映画監督)

ドキュメンタリー映画史
エリック・バーナウ著/安原和見訳4700円+税

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