『春画と印象派』を書き終えて/木々康子

 ようやく私の春画に関する本が世に出る。三年前、バルセロナ大学のブル教授の訪問を受け、「林忠正は春画を売った国賊だ、と非難したのは誰ですか」と訊かれて驚くまで、私は春画を見たこともなかった。
 林忠正は明治期のパリで、美術商を営んでいた私の義祖父である。林を材料として、私はいくつかの作品を書いた。林は祖国の芸術に誇りを持ち、まだ日本人が芸術の意味も知らなかった当時、印象派の画家たちと深い友情で結ばれていた。「国賊」の言葉も、私はさほど気にしてもいなかったのである。
 教授はヨーロッパには春画がたくさん存在していて、二〇一三年には大英博物館で「春画展」が行われること、その芸術性も高く評価されていて、ピカソ展でも多くの春画が紹介されたと教えてくれた。
 その日から、私は春画を調べ始めた。まず春画をたくさん見た。抱き合う男と女の表情は喜びに満ちて、優しい。だが、描かれている男根は、ぎょっとするほど大きく、卑猥さを越えている。しかし、大きく開かれた女陰はやはり淫らだと思った。
 徳川の初期に庶民の中から生まれた浮世絵(春画)は、鎖国の中で独特な文化を醸成した。春画という男女の交合図は日本だけのものなので、私は西欧の文化も調べてみた。中世以後、神によって定められた掟に縛られて、表現の自由も認められなかったヨーロッパの芸術家たちは、「裸の人間こそ、最も美しい」と思いながら、女神の裸体しか描けなかった。そしてキリスト教は、特に性欲を憎んだ。そこから女性は「神によって作られた最大の悪」として差別されつづけたのである。
 春画は二人だけの世界である。二人は歓びを共有している。だが、ヨーロッパの男女は対等ではない。妻は子供を産むだけの存在であり、夫は娼婦によって欲望を満たす。恋愛は淫らで神に背くもの――こんな世界では、春画は絶対に生まれない。
 だが、明治維新後、日本も欧米のキリスト教の倫理を採り入れ、春画も禁止した。春画は卑しい絵となり、性は恥ずべき淫らなものとなった。春画は隠され、存在しないものとなった。
 しかし、浮世絵は、古典や古事から多くの題材を得ている。江戸期に入ると、庶民も、古典や歴史などの翻訳本や注釈本を求めた。それらは直ぐに春画本となって、いっそう女たちを喜ばせた。絵師たちは文化の伝承者だったのである。
 泰平な世は奢侈に流れ、幕府の財政は衰える一方だった。幕府は何回かの取締りを行い、浮世絵や好色本は禁止、没収された。華やかな浮世絵を世に送った版元の蔦屋は、山東京伝と共に処罰され、失意の中で死亡している。歌麿は禁忌の太閤の絵を描き、入牢と手鎖に処せられて二年後に亡くなった。天保の弾圧のとき、女たちの人気を集めていた当世風の「源氏物語」が、大御所の批判をしたと咎められて、柳亭種彦と歌川国貞が捕えられた。旗本だった種彦は自殺したと言われている。絵師たちは絵筆によって権力を批判し、筆を止めなかった。
 絵具の使用も制限され、絵師たちは地下に潜った。絵師、彫師、摺師の三者は技巧を尽して、華麗な錦絵を作った。幕末期の絵師たちが残した最高の版画芸術を、ぜひ見ていただきたい。
 もう一度、喜びに陶酔している春画に戻ってみる。やっぱり、卑猥ではないか。しかし、見つめていると、太古から続く命の流れが感じられる。私たちはそこから生まれたのである。
 印象派の画家たちは、隠されていた浮世絵(春画)をしっかりと見ている。その衝撃を絵画としたのが、マネの「草上の昼食」「オランピア」だと私は確信している。林の背に国賊のレッテルを貼ったのは、世界を知らず、芸術にも無知な人々であろう。
 E・グラッセは、パリを去る林に「古ぼけた私たちの文明に、優雅な花をつけた林檎の一枝のような、素晴らしい日本美術を知る喜びを教えていただいた……」との言葉を贈っている。
(きぎ・やすこ 作家・美術史研究家)

木々康子著2400円+税

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