誰がための規制改革か/中澤誠
「過労死するぐらいまで頑張ります」
十七年前の中日新聞の入社面接でのことだ。リクルートスーツに身を包んだ私は、部屋に入るなり、二人の面接官を前にして、こう叫んだ。
採用してもらおうと必死だったのだろうが、今思えば恥ずかしい話である。そんな自分が、三年以上にわたって長時間労働の問題を取材することになろうとは思ってもみなかった。新聞社に入社してからも、労働問題とは縁遠い道を歩んできた。サブロク? ロウキホウ? 素人同然もいいところだった。
転機は、居酒屋チェーン「和民」などを運営するワタミフードサービスで自殺した女性社員の労災が認定されたことだった。二〇一二年二月、東京新聞横浜支局で警察・司法を担当していた私は、横浜裁判所クラブで行なわれた記者会見に臨んだ。
会見で遺族や弁護士の口から語られた職場の実態。その女性が働いていたのが、渡邉美樹氏が率いるグループ会社だったことに強い衝撃を覚えた。
社員を家族と広言するカリスマ経営者と、入社二カ月の新入社員が働き過ぎにより自殺した現実。取材は、「渡邉氏というカリスマ経営者のもとで、なぜ過労自殺が起こったのか」という疑問に突き動かされるように始まった。
間もなくして、ワタミという一企業だけの問題にとどまらない現代日本の病巣のようなものを感じた。大手、中小を問わず、はびこる長時間労働。しかも、長い景気低迷から企業のコスト意識は高まり、職場の労働環境は悪化の一途をたどっていた。
ところが、である。安倍政権は、経済成長を促すために働くルールを緩和しようとしている。
働くことは、多くの人たちにかかわる問題にもかかわらず、国民は蚊帳の外。賛成派で固められた首相直下の会議でルール改正の道筋を付けてしまう。過去に世論から反発を浴びた制度が、あれよあれよという間によみがえった。
安倍政権は「私に従っていればいい」と、国民には決まったことを説明するだけ。東日本大震災後の原発再稼働しかり、二年前に成立した特定秘密保護法しかりだ。そして今、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案をめぐり、これまで政治に無関心だった若者や主婦までもがデモに加わり、抗議の声をあげ始めた。
本書サブタイトルにある「八時間労働」というルールも、労働者たちが自ら声をあげて勝ち取った権利である。長時間労働に苦しむ米国の労働者たちが一八八六年五月一日、「八時間は労働、八時間は休息、八時間は自分の自由な時間に」と訴え、ストライキを起こしたことにさかのぼる。
日本でも、労働基準法で一日の労働時間を八時間と定めている。それを超える労働、つまり残業は例外との位置付けだ。残業させる場合、使用者には従業員に通常よりも上乗せした賃金(残業代)を支払うことという経済的負荷をかけている。労働時間の規制緩和策として安倍政権が導入をもくろむ「残業代ゼロ制度」は、その残業代を支払う規制を一部の労働者には適用しないというものだ。安倍政権は、企業活動の足かせとなる規制を「岩盤規制」と呼び、規制の緩和や撤廃を進めているが、働く人たちの命や健康を守るための「八時間労働」まで同列に論じていいものなのだろうか。
本書は、労働時間の規制緩和に対する私なりの意見表明である。労働者は本当に規制緩和を望んでいるのか、長時間労働の改善につながるのか――。自分の中に沸き上がった率直な疑問を、統計データや現場のルポを通じて一つひとつ検証していった。
労働の専門家でもない一記者の見解には異論もあろう。ただ、働く人たち一人ひとりが自分のこととして、働くルールの改正について考える材料となればありがたい。
幸いにも、安倍政権が今国会での成立を目指す法改正案は、安保関連法案の影響で手つかずのままだ。まだ時間はある。池に投げた石は小さいかもしれないが、わずかでも水面に波紋が広がることを期待している。
(なかざわ・まこと 東京新聞記者)
ちくま新書
『ルポ 過労社会――八時間労働は岩盤規制か』
中澤誠著 820円+税
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