小さな世界の豊かな遠近法/鷲谷花

 二〇〇二年に青林工藝舎から刊行された『虫けら様』は、装丁からして世にもかわいらしい一冊だった。このたびの文庫版にも引き継がれたカバー表紙イラストには、菓子盆、火鉢、文箱などの道具類に囲まれ、筆を手に文机に向かう羽織姿の黒い昆虫が描かれ、小さく「オトシブミ」と添え書きされている。

 ここには、単にヒトの衣装を着せられたムシだけではなく、より複雑微妙な「ヒトの世界」と「ムシの世界」との関係を見出しうる。オトシブミの身体各部の形状は図鑑的な正確さで再現される一方、よく見ると、文箱には木の葉の柄の金蒔絵が施され、藍色の羽織には結び文の文様が散っている。ムシそのままのムシと、ヒトの着物や道具類とが、それぞれ本来の形状に忠実に描かれることで、互いの異質性を主張しながらも、「オトシブミ」を指し示すさまざまな意匠(文机、結び文、オトシブミが産卵する木の葉)によって、親しく相和する。
 この図に描かれた古風な着物や道具類は、確かにヒトの身近にあったものには違いないが、二一世紀初頭に生きる読者の多くにとっては遠い過去の時代に属するものでもあり、写生的に描かれたオトシブミの身体と結びつくことで際立つ「微小さ」の印象とも相まって、われわれの世界からは隔たったものに見える。反面、「ヒトならざるムシ」ではあっても、ヒトのごく身近に生息し、昆虫観察記や図鑑に頻繁に取りあげられて馴染み深い存在でもあるオトシブミを介してみると、ヒトの世界から隔てられているはずの描かれた世界は、親しみ深い近さがそなわるようでもある。われわれヒトにとっての「遠さ」と「近さ」が複雑に入り組んだ小さな世界への入口として、この図はまことにふさわしいものであるだろう。
『虫けら様』に収録された一連の短編マンガは、擬人化されたムシたちの世界を描きかつ語るが、ムシをヒトに一方的に近づけるという意味での「擬人化」や、人間的な価値観に即した物語の中で、ヒトの似姿としてのムシを動かす「諷刺」とは、似て非なる独特の境地が、いずれの作品にも開かれている。
 たとえば、冒頭の短編「瓢箪虫」に登場する瓢箪そっくりな昆虫は、見るからにムシらしく描かれ、しかも人間側の主役の僧が育てていた瓢箪に大穴を開けてしまう「害虫」でもある。しかし、瓢箪虫は、空にした瓢箪の内部で草木の枝葉やドングリを材料に工作をはじめ、柱も格子窓もある部屋をしつらえ、道具類や座敷飾りを並べて、人間さながらに優雅に暮らしはじめる。僧とも贈り物を交わすなど、つかの間「人間的」といえる交際が成立するが、やがて秋が来て、瓢箪は地に落ちて朽ち、屍となって転がる瓢箪虫を、僧は「はかなきことよ」と手に取り眺める。ヒトとムシの暮らしが、隔たりつつも不意に近づき、また遠ざかる過程を含み込むことで、この短い物語に描かれた小さな世界は、遠近法的な奥深さをもつ。
 瓢箪虫は、人間的な表情を欠くリアルなムシの面貌をもちながら、人間的に生活するが、それとは対照的に、連作短編「虫けら様」では、真冬に羽も口吻も欠く成虫となり、交尾と産卵だけに短い生命を費やすフユシャクの雌や、アリの巣の中に入り込んでアリに給餌されるアリヅカムシなど、ヒトとかけ離れたムシそのものの生態が忠実に再現される。その一方、主人公のムシたちにはマンガ的に擬人化された表情やしぐさが与えられ、その体験や感情が、ヒトにとっても身近に感じられるものとして物語られる。
 各短編ごとに、江戸時代以前からの「虫画」の伝統的様式、写生と観察に基づく昆虫観察記的なアプローチ、マンガ的なキャラクター表現など、異なる複数のスタイルが使い分けられることから、小さな世界に深い奥行きと豊かな機微をもたらす遠近法が立ち上げられ、ヒトに近くヒトに役立つムシのみがかわいらしいのではなく、人間的な用や快美の感覚とは通例相容れない「ムシそのもの」性、生老病死の苛酷な相もまた排除されることなく、世界にとって欠くべからざる細部として、丁寧に拾い集められて配列される。そのようにして組み立てられた小さな世界が、複雑微妙な遠近法によって見通される。『虫けら様』はそのような書物であり、この一冊の中だけにしかないかわいらしい世界を抱いて、人々の訪れを静かに待っている。
(わしたに・はな 映画史)

ちくま文庫
秋山あゆ子著 760円+税

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