福嶋亮大/日本と中国のあいだ・1 文献学の世紀

 本居宣長(一七三〇~一八〇一年)と言えば、中国由来の「漢意」を批判し、日本固有の「古の道」を探り当てようとした国学者である。その企てにおいて、彼は「日本人の心」をあいまいな印象論によってではなく、『万葉集』や『古事記』等に残された言語的なデータによって再現しようとした。なぜなら、古代の日本人は心のさまを「歌」として表出し、歴史も「言」として書き記したからである(『うひ山ぶみ』)。「日本的なもの」は言語とカップリングされているという認識のもと、宣長は自らの思想を実証的な文献学として組み立てていった。
 ところで、言語(書かれたテクスト)への関心は、実は宣長の敵視した中国の思想状況とも共振していた。十八世紀の中国が文献学の世紀であったことは、改めて注意しておいてよい。最近翻訳が出た碩学ベンジャミン・エルマンの『哲学から文献学へ』は、そのことを知るのにうってつけである。
 十七世紀後半から十八世紀にかけて、中国の優れた考証学者たちは古い儒教のテクストの文献学的分析に乗り出していた。従来の朱子学の学問・著述のやり方が口頭のコミュニケーション(清談や問答)に基づくのに対して、新時代の学者たちは正しいテクストを実証的に確定し、公正な文献理解に到達することを目指す。そのテクストの検証作業は、かえって儒教の遺産の信頼性を脅かしかねないほどに徹底していた。と同時に、この新興の学問の担い手には江南の商人出身者が多く含まれており、その一部は官職につかない学術の専門家として身を立てたことをエルマンは詳細に論じる。
 日本の宣長もまた、松坂の商人の家に生まれ、自身は医者として生計を立てていた。政治的責任を負わない市井の知識人=自営業者の立場から、彼は儒教では評価できない不埒な文学にこそ人間のリアリティを認めた。こうした選好は、決して「治者」になれない商人としての存在様態と関係するだろう。特に、日本の古典文学から抽出された宣長の「もののあはれ」論が、実は江戸時代後期の町人階層の文学――為永春水の人情本等――と共振していたことは、日野龍夫が指摘したとおりである(『宣長と秋成』)。
 宣長自身は同時代の中国の学問に詳しかったわけではない。しかし、中国の知的遺産は彼の仕事に陰に陽に影響を及ぼしていた。例えば、中国文学者の吉川幸次郎は『古事記伝』の何気ない記述を例に、宣長が『十三経注疏』のような注釈書から『爾雅』のような字書に到る中国のテクストを、いかに細心かつ精密に読み込んでいたかを示した(『本居宣長』)。日本の原型的ナショナリストである宣長は、その実証的な知の深層において、かえって中国と密通していた。
 さらに、宣長の文献学のみならず美学も「十八世紀的なもの」と言えるかもしれない。フェミニンな『源氏物語』を賞賛した宣長と同時代の中国には、『紅楼夢』のなかで麗しい女性たちを描いた曹雪芹がいた。あるいは、宣長が自分の和歌好みを小人の「癖」と形容したことは、まさに「癖」(病的な執心)に取り憑かれた奇人を描く『聊斎志異』(十八世紀中頃に刊行)と遠く響き合ってはいないか? ともあれ「十八世紀の思想家」として宣長を読み直すことは、日本のナショナリズムを脱構築するための格好の手がかりになるだろう。

(ふくしま・りょうた 文芸批評)

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