世界中のよき出会いとつながるために/三砂ちづる

 エクアドルで著者がナマケモノに遭遇したエピソードから始まる、この本。ナマケモノ、という穏やかな動物に、私も会ったことがある。ブラジルの貧しい地域である北東部(ノルデステ)のはずれ。そこで幼い二人の男の子を育てる母だったから、地元にある小さな動物園にもよく行った。「動物園」とはイギリスが植民地にしていた国の動物がいるところ、と無意識に思っていた私は、ノルデステの動物園に驚愕せざるを得なかった。
 入口付近右手、柵もあるのかないのかわからない適当なところに数匹のタマンドゥア、つまりはアリクイがのろのろと歩いている。入って左手には、ちょうど日本でニワトリを飼うような檻の中で、タトゥが走っている。アルマジロをブラジルではタトゥと呼ぶのだ。結構小さい。そして結構走るのが速い。たたたた……という感じでぐるぐる走っているタトゥは息子たちのお気に入りで、手前にくるとおなかにさわれる。アルマジロのおなかは、“ぷにぷに”していて気持ちいい。そして動物園のもうちょっと奥にナマケモノが何頭かいて、網のついた檻に入れられ、のんびりと長いツメで網にぶらさがっている。子どもたちと私はナマケモノのツメに触ったりおなかにさわったりして、うふふ、と笑い合うのだが、ナマケモノは、全く意に介することなくじっとしていた。時折目もあう。その、なんとなくへらっと笑ったような目と。思えば、たいした「ふれあい動物園」であった。
 幼い子どもたちとのブラジルのいなかでの生活はもう二十年も前のことである。膝の上に乗せることができた子どもたちは今や見上げるような青年となり、強く忙しくあることが求められるこの国で、なんとか生き延びては、いる。ブラジルの日々はただ遠くなっていたが、この本を繰っていくと、想起されるのは、忘れていたと思った幼い子どもたちとの「弱く」そして、「力強い」日々である。この本は私たちの「弱く」しかし美しい思い出を想起させる。読むことで何らかのスイッチが入り、記憶がよみがえる。それは「本」のもつ本質的な力であり、この若い人向けの本は、その力に満ちている。
 同時にこの本には多くの学問に繋がる端緒が用意されていてたとえば、大学一年時のセミナーにぴったりの本。著者は、ほがらかな「ナマケモノ楽部」の世話人、自然と旅を愛するスロームーブメントの創始者、と思われている辻信一だが、この人は大学の先生で、研究者で教育者であることを思いおこさせられる一冊なのである。あちこちに人類学者や生物学者たちの言葉や理論がきらめいていて、知らない間に勉強させられている。
 霊長類学は日本が世界の最先端を走る分野だが、ゴリラは自分の立場が相手より下であることを示す表情を持たず、威嚇されても視線を避けず、じっと相手の目を見るのだということをどれほどの人が知っているだろう。力の優劣がないのでメスでも子どもでも堂々とオス同士のケンカに割って入り、顔を寄せて覗き込む、というゴリラ研究者山極寿一さんの本からのエピソードは、「弱虫でいい」というこの本の中でこそ輝きを増す。
 作家のことば、詩人のことばもきらきらしている。元々美しい物語や言葉が、彼の手にかかると、さらに輝く。知っていたはずの宮沢賢治、「なめとこ山の熊」の最後の場面で、思わず涙してしまった。凍りついた小十郎の死体のそばで輪になりひれ伏して祈る熊たちの姿に。
 この本を手にした若い人が、この本に出てくる誰か一人の本につながることの喜びを思う。そしてその学びは、人を押しのけて競争に勝つような「強さ」ではなく、世界中のよき出会いとつながる「弱さ」につながっていくだろう。この本の対象年齢層であるティーンエイジャーは「ちくま」など読むまい。「ちくま」を読んでいるあなた自身がこの本にこころ洗われ、「ゆっくり」で「弱虫」でいい、と得心したら、この本を周囲にいる高校の先生、大学の先生に紹介してほしい。直接渡せる若い人が周囲にいれば、それは何よりの幸運。もちろん、あなたの。(みさご・ちづる 作家)

ちくまプリマー新書
辻信一著
840円+税

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