新しいケインズよ、出でよ。/竹田青嗣

今度ちくま新書で、『人間の未来』という本を書いた。もともとのテーマはヘーゲル論で、二〇〇四年に書いた『人間的自由の条件』を、もっと分かりやすくもっと具体的に、という動機だった。ところが、この五年のうちにいわば時代の空気が大きく変わっていることに気づく。なにより大きいことは、この間の世界金融危機である。
 今回の金融危機は、現代の批判思想にとっていくつか重大な問題を示唆している。まず第一に、主としてマルクス主義とポストモダン思想が主導してきた「資本主義批判」の観念が、結局のところ大きな“的外れ”であったこと。そのような資本主義批判ではなく、まったく新しい種類の資本主義批判が必要だということである。
 資本主義は“搾取”によって支えられる欺瞞的な経済システムであり、また「格差」(偏り)を利用してのみ展開するので必ずどこかで破綻する。これがはじめにマルクスが与えた資本主義の像だった。ポストモダン思想は、これに資本主義は格差(差異)によってのみ進むので、幻想的な(虚妄な)欲望を果てなく拡大するものでしかない、という像を「つけ加えた」。そこで、現代の批判思想家たちは、資本主義とそのパートナーたる現代国家を、“不可視かつ幻想的な権力のシステム”として思い描き、この幻想のイメージを解体することに精力を傾け続けてきたし、いまも続けている。しかし、世界金融危機が示しているのは、一見、これらの主張を裏付けるように見えるものの、じつはこれとは違う事態である。
 わたしは、今度の本で、経済システムとしての資本主義を、「普遍交換‐普遍分業‐普遍消費」という概念で定義した。ひとことで言えば、資本主義は近代社会に固有の経済システムであり、その秘訣は、「競争」を利用することで、社会の生産性を持続的かつ飛躍的に増大しつづける点にある。それまでの経済システムでは、強制があって競争はなかった。
 二十世紀の資本主義は、石油の発見、電気・電子革命、そして先進国が戦争をやめたことが大きなはずみ車となって、高度成長を続けた。しかし二十一世紀はこれに匹敵する画期的技術革新がなく、世界全体の経済成長は必ず下り坂になる。そこで諸国家は、それぞれ金融と投資を利用して経済を刺激しようとする。これが実体経済と金融経済の乖離を生み出して、バブルとバーストのサイクルを生み出す。しかしだからと言って、資本主義が終わりになるわけではない。むしろ、資本主義は悲惨なデコボコを繰り返しながら、徐々に「普遍消費」を拡大してゆく。その結果は、「資本主義自体の破綻ではなく」、地球の資源の“蕩尽”という局面である。これについては、巨大人口をもつ中国とインドの経済成長を考えればよい。これらの中進国がいまの調子で緩やかに生活水準の高度化を続けるだけでも、おそらく二〇六〇年には、地球が三つとか四つ必要となるような水準に行きつく。つまり、その途上で激しいパイの奪い合いが生じて、核戦争や核のテロが起こるという可能性はきわめて高い。人間社会の課題は、さしあたり、この危機を克服できるかという点にあることは明らかである。
 だから資本主義は虚妄のシステムなのだと、批判家たちは言うだろうか。しかし問題なのは、社会生産を飛躍的に増大する資本主義なしには、多くの人が一定の「自由」を獲得する近代社会自体が存在しえなかったということだ。つまり、資本主義(競争ゲームのシステム)を代替するオプションはなく、それを廃棄すれば、強制のシステムが立ち戻ってくるのである。
 世界金融危機は悲惨な不幸を人々にもたらすだけではなく、人間社会の壊滅的なカタストロフィの予兆でもある。そして、この危機に対して、資本主義は幻想のシステムであるという批判は、(マルクスが言ったように)水に溺れないためには重力の思想を幻想として退ければよいと考えるのと似た、滑稽な批判なのである。資本主義システムは、現代社会を支える根本的経済システムである。だからこそ、このシステムの内的な仕組みを改変する以外に人間社会は先へ進めない。必要なのは、重力の思想を幻想だと主張するレトリックではなく、むしろ、協調的経済競争の可能性の原理を創出する、新しいマルクスやケインズの出現である。
(たけだ・せいじ 哲学・文芸批評)

『人間の未来 ―ヘーゲル哲学と現代資本主義』
竹田青嗣
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