英語教育の弱点/国広哲弥

  この本は日本人の英語学習法の盲点を鋭く衝いた警世の書である。世の英語教師はもちろん、その背後に控える文部科学省の関係者は真剣に向き合ってもらわなければならない。なぜ日本人は英語が下手なのか。外国との交渉に当たる官僚や経済人の語学力の貧しさゆえにどれだけ国益が損なわれていることか。本書は学校の英語教育法の根本的な弱点を衝き、その解決法として多読を提唱する。問題点を箇条書きにすると次のようになろう。
 (1)単語や文法の細部に拘泥してはならない。
 (2)逐語的和訳を通じて理解することをやめるべきである。
 (3)場面の中での文単位の意味理解を目指せ。
 (4)多読せよ。
 つまり細かなところを気にしないで多読していれば、文法も意味も分かってくるということが、実践例に基づいて、確信をもって語られている。
「細部に拘泥」ということで思い出されるのは、ある英語教育誌に延々と続いている「質問箱」の中身が重箱の隅をほじくるような文法問題に満ちていることである。そして語法に詳しい英和辞典が一番よく売れているということも思い合わされる。辞書の選択は初学者には難しいので、これは教師自身の好みの反映であろう。
 右の(2)と(3)は盾の両面みたいなことである。つまり読解に際して、日英語の単語を一対一で引き当てないこと、ひっくり返って訳さない、ということである。このひっくり返り訳は漢文訓読の悪しき伝統を受け継ぐものであり、漢文訓読体が日本語の中でひとつの文体を確立している以上、この直訳の習慣から脱却するのは容易ではないかもしれないが、それをしない限り、文型の異なる英語の中にすっとはいることは難しい。むかし現代中国語(=北京方言)を学習し始めたとき、先生は漢詩も全部現代音で読み下す方法で授業を進めて行った。漢詩の意味は生き生きと感じられ、脚韻も美しく鳴り響いた。漢詩を訓読するなんて刺身の代わりに干物を食べるようなものである。
 著者は本書でも前著(『快読100万語! ペーパーバックへの道』ちくま学芸文庫)でも「決まり文句」の重要性を強調している。これは決まった表現が場面に応じて文字通りとは違った意味になる現象を指す。本書の一七七ページにある What do you think? がその一例である。これは相手の言を否定する表現であり、「目はどこについてんだ」という意味だという。これを読んで私は愕然とした。数年前アメリカのある著名な言語学者と英語の表現構造についてEメールで意見を交換したことがある。最後に私の意見を述べたあと、軽い気持ちで「あなたはどう思いますか」と言うつもりで What do you think? を付けたのである。それっきりやり取りは止まった。その理由がいま分かった。
 著者が本書で薦める最大の眼目は「多読をせよ」ということである。細かなことはすっ飛ばしてとにかく多読をせよ、というのだ。私は意識的に多読を目指したことはなかったが、年を食っているせいで、かなりの量は読んでいる。量の圧力で心の奥に沁みこんだことは、後で英語を話すときも書くときもじわじわと効いてくるものだと最近感じることが多い。
 ここで問題になってくるのは、中学高校の英語のテキストの薄さである。文科省はむかしから不必要な規制をやたらにかける所だと見ているが、教科書検定もいっさいやめたらどうであろうか。本書で紹介されているように、多読用のテキストはイギリスでたくさん出されている。むかし、知人が文部省の英語科教科書調査官をしていたことがある。「教科書の選択は現場にまかせたらどうですか」と言ったら、「現場にまかせるとめちゃくちゃになるんですよ」という答えだった。しかし今のままでもどのみち不十分なのだから、ここは大いに考えるべきところだろう。
(くにひろ・てつや 東京大学名誉教授・神奈川大学名誉教授、言語学)

『さよなら英文法! 多読が育てる英語力』
堺 邦秀
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