カントはよみがえる/石川文康

 このたび、拙著『カントはこう考えた』(筑摩書房、一九九八年)が「ちくま学芸文庫」に収録された。感慨深いものがある。この機会に改めて思うところがある。
 同書に先立って、私は『カント入門』(ちくま新書、一九九五年)を、その直後に『カント第三の思考』(名古屋大学出版会、一九九六年)を上梓していた。これら三著すべてに共通するスタイルは、カントのアンチノミー論を中心にすえて、そこにおける思考のダイナミズムを再構成しているということである。「アンチノミー(二律背反)」とは、相反する二つの主張のペア、すなわちパラドックスのことである。ただし、単なるパラドックスではなく、およそパラドックスとは無縁と思われている理性が生み出すパラドックスのことである。だから、ただ事でない。私がそのようなスタイルをとったのは、カント自身が、アンチノミーという深刻な事態に気づいたのを直接のきっかけとして、『純粋理性批判』の執筆に思いいたった、と率直に告白しているからである。そこに、いわば「原カント」の姿がある。『純粋理性批判』が「批判」と名づけられたのは、実に、アンチノミーに陥る理性を批判するためだったのである。
 しかし、このスタイルは従来のカント紹介書のそれとは著しく異なる。十九世紀後半以来、新カント派によって、『純粋理性批判』解釈においてアンチノミー論をなおざりにする傾向が一般化した。新カント派を代表するH・コーヘンの『純粋理性批判』の注釈書においては、アンチノミー論を含む「弁証論」が完全に欠落しているほどである。そして、わが国に西洋哲学が導入されたのがまさに新カント派の時代であったことを思えば、そのような傾向が哲学史の常道と受け止められたとしても不思議ではない。その結果、「端正」で、面白くもおかしくもないものの、なにかしら無視できない大哲学者像が定着した。
 そこには次のような事情がある。それは、もともと新カント派は反ヘーゲル運動として興ったということ、そしてカントとヘーゲルの最大の接点がアンチノミー的思考だったということである。そのような〈ヘーゲル・アレルギー〉を考慮すれば、カントのアンチノミー論を軽視する傾向も十分頷ける。
 だがはっきりいえることは、この十数年間、国内外のさまざまな機会にアンチノミー論の思考過程にみなぎるダイナミズムを解説すると、まったくの初心者にも、彼らの内に眠っていた哲学心を呼び覚ますということである。
 それには十分なわけがある。カントは、人間理性に宿る「素質としての形而上学」の存在を指摘した。形而上学とは、具体的な経験的世界を超えていく学問のことであり、伝統的な哲学の檜舞台である。「素質としての形而上学」とは、何のことはない、普通に理性を備えた人間であれば、誰しもたとえば「世界は有限なのだろうか、それとも無限なのだろうか」等々、という素朴な問題に思いをはせる、そういう「素質」を持っているということである。そして、その問題こそが『純粋理性批判』のアンチノミーの代表的テーマなのである。さらに、それを厳密に検討し、最終的な答えを提出することが「学問としての形而上学」である。そして『純粋理性批判』、とりわけ「アンチノミー論」こそが、学問としての形而上学を建立するための整地作業にほかならない。
 誰しも無関心ではいられないテーマに加え、そこに働くのが二転三転する思考のダイナミズムとあれば、ますます誰しも〈哲学心〉を掻きたてられるはずである。『カント入門』『カントはこう考えた』の読者がスリルをさえ覚えてくれたのは、ほかでもない、カントのいう「素質としての形而上学」の存在とその意義を立証してくれたということになる。
 とすると、アンチノミーは単にカント一個人の偶然の出発点だったのではなく、ひょっとして、理性が人間一般という舞台を借りて自己実現を図るドラマの、避けて通ることのできない迷宮にも似た台本なのかもしれない。カントをその台本作家ととらえれば、彼は、新カント派が描いた筋書をよそに、「原カント」としてまったくフレッシュによみがえるであろう。
(いしかわ・ふみやす 東北学院大学教授)

『カントはこう考えた』
石川文康著
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