芸をとるか、芸人をとるか/松本尚久

 昭和十年に製作された記録映画「鏡獅子」は六代目・菊五郎の芸を保存した数少ない映像作品のひとつ。撮影当時五十歳だった菊五郎の踊りを明確に記録した作品として知られるが、この映画を最も嫌っていたのは菊五郎その人であった。完成試写を見ていた六代目は、映画の途中で「おれはこんなに下手か」と言って部屋を出て行ってしまったという。菊五郎自身はこのフィルムを破棄するように希望したとも伝えられる。
 しかし、映画撮影の十数年後に名優が没したあともフィルムは残り、舞台記録映画の〈名作〉として繰り返し上映され現在ではDVDにもなっている。菊五郎の意に反して。
 芸をとるか、芸人をとるか――という問題がある。
 今回、『志ん朝の走馬灯』と題してまとめられた京須偕充のエッセイが語っているのはつまりそのことであり、結果として著者は古今亭志ん朝その人よりも、〈志ん朝の芸〉を選んだ。本書はそのプロセスを慎重な筆致で告白したものである。
 かつて、芸は人の記憶の中だけに残るものであったから、そこでは現場に立ち会った人の証言としてつねに〈伝説〉が語られた。いわく、本当に地面が揺れるようだった九代目團十郎の「地震加藤」、急流の轟音を感じさせた圓喬の「鰍澤」、人間ではない動きをしたエノケンの法界坊……。
 私の記憶にある志ん朝の落語は、観客を陶然とさせるものではあったけれども、この種の伝説や神話とは無縁だった。
 志ん朝は落語としてはめずらしく、録音とナマの高座に落差があまりない。
 古典芸能の演じ手は、おおよその場合、観客が演者についてあらかじめ抱いているイメージを自らに取り込んで芸を見せる。演者が著名であればあるほど、その作業は有利に働く。しかし録音や録画の中に観客が抱く伝説や神話――という幻影――を記録することは出来ない。だから観客はCDやDVDを通じてライヴを観たときに「こんなものだっけ」という感想を抱く。
 志ん朝の落語には――言うまでもなく彼は落語界屈指の〈大看板〉であったが――それがなかった。志ん朝は自己にまつわるイメージを利用しなかった。CDやDVDの中の志ん朝が、ナマの志ん朝にほぼ近い像を結ぶのはこのためである。ライヴの志ん朝にはまぎれもないオーラがあったが、本人が信用していたのは一切ごまかしのない技術だけであったのだろう。
『志ん朝の走馬灯』に繰り返し描かれるのは「芸は消えてこそよし、遺すものではない」と主張する志ん朝と、それを説き伏せて録音を前提にした落語会を開催、アルバム数十枚にまとめあげたレコード制作者・京須偕充の紳士的攻防である。
〈「レコードね。もういいですよ、出しても。まあ、芸もこんなものだろうし」〉(本文一八五頁)と志ん朝が応えたのは交渉開始から四年を経た頃であった。その時期が落語協会分裂事件の直後であったことと併せ、これは諦めの言葉のようにも響く。
 世界的コンダクター、カラヤンは没後、今日に至るまで続々と新しいアルバムがリリースされている。それは生前に放送局などが録音していた楽曲を未亡人エリエッテの許諾を得て発売したものである。カラヤンの幽霊が「誰の許可を得た!」とレコード会社に抗議し、制作者が「エリエッテの……」と答えると巨匠の幽霊がしゅんとして冥土に戻ってゆくという漫画があった。
 レコード制作者である著者は志ん朝の生前にアルバム二十一枚を制作、その没後には未公開音源によるCD十二枚を世に送り、さらにDVD全集の監修もしている。それを志ん朝が望んだかどうかはわからない。しかし、記録媒体が高度に発達した時代にあって、一度記録されたデータは、芸人の意志を超えて残り続ける――このことを聡明な志ん朝はわかっていただろう。ともあれ、京須偕充は〈志ん朝の芸〉を選択したのである。
 伝説の「志ん朝七夜」について、〈録音に残っていますから検証が可能です〉とサラリと書いてしまう著者はある種の偶像破壊者であり、だからこそ志ん朝の同伴者にふさわしい。
(まつもと・なおひさ 放送作家)

『志ん朝の走馬灯』
京須偕充著
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