人殺しの実像/河合幹雄

 殺人とは何か、人はなぜ人を殺してしまうのか。このような問いを前にして、大きく分けて二通りの語り方があるように思う。第一は、人間や人生を理解するうえでの、普遍的なテーマとしての、殺人の研究である。第二は、二〇〇九年の日本、裁判員制度がまさに始まりつつあるこの時期における殺人とは何かを問い直す姿勢である。
 本書では、この両方を追求した。ただし、出版時期も含めて、後者の観点をやや優先している。いずれにせよ、最も必要なことは殺人事件、とりわけ殺人者の実像を提示することであると考え、それを丁寧に記述することにつとめた。殺人とは、基本的に不可解なもので、理解できたと思うほうが間違いである。イデオロギー先行の、凶悪犯罪者イメージと弱者イメージのどちらかを支持するような次元の単純化は避けて、細かい殺人事件のカテゴリーや殺人犯のグループを淡々と書き記した。殺人事件の過半は家族内の事件であるが、親子心中、嬰児殺、保険金殺人、介護を苦にした事件、自殺幇助というバリエーションがある。次に多いのはケンカ殺人、暴力団抗争などである。身代金事件、バラバラ事件、連続殺人、大量殺人から猟奇事件まで、網羅性を高めてあらゆる種類をその発生頻度を含めて示した。これで、どのような殺人がどのくらい起きているかという基本情報が伝えられたと信じている。
 事件で終わらず、捜査、公判、刑務所での殺人犯の様子から出所後にどこでどうしているかまで、わかる範囲で記述した。量刑が話題になっているが、殺人犯のその後の情報こそ大切だからである。実は、世間から家族ごと永久追放である。
 被害者側にも目をむけ、その状況を示した。被害者の意向を重視せよということが当然のごとく論じられているが、これはある意味で全くの誤りである。殺人の場合、被害者は殺された本人ではなく遺族なのであるが、その半分以上は、犯人自身である。また、ケンカ殺人の場合に、被害者の意向を汲んでどうするのであろうか。さらにいえば、人を人とも思っていない極悪非道の人物を殺人事件の中で探せば、それは、むしろ殺人被害者に多い。加害者は堪りかねたうえでの犯行なのである。
 殺人事件を理解する際に、よく金目当て、恨みの犯行といった説明がなされる。これは少し深く考えれば全く何も説明していない。金がほしい人も、恨みで誰かを殺めたい人も多数存在すると予測するが、たいがい実行できない。「殺してやる」という気持ちを抱くが殺せないという「普通の」状況から殺人既遂まで、どうやって飛躍できるのか、この部分こそが焦点である。そう考えると、被害者が極悪非道の場合が、最も理解しやすい事件である。かつては、この「偏見」から被害者のための制度ができなかったわけであるが、今は奇妙な逆転現象で、被害者は無垢だと思われている。
 後半部では、死刑を論じ、戦争も含めて「殺し」を検討。蜂や熊に殺される事件数、交通事故などの不慮の事故、自殺との対比も試みた。人は、犯罪ではなく、核兵器の投下など“正しいと見なされること”で殺されてきた場合のほうが多いことは確認の必要がある。
 そして、少々アブナイが、殺人をテーマにした文芸映画の繁栄に鑑みれば、殺人の「魅力」についての考察も必要である。「人を殺す自由」についての考察と言い換えてもよい。
 特異な事件を大量報道する世相の逆をいって、全体像を示すということにこだわった。裁判員の判断を助けるに止まらず、民主主義的討議の前提として、事実を確認してから議論が始まるというあたりまえのことが日本に根づいてくれることを願いつつ書いた。多くの人に読んでもらうために平易な文章を心がけたが、他方で、法律上はどうなっているのかについては、最低限の記述を省かない方針でのぞんだ。事実も法律も知らずにお任せして安心してきた伝統を終わらせることこそが、日本の将来取るべき方向と私は考えるからである。
(かわい・みきお 桐蔭横浜大学法学部教授)

『日本の殺人』
河合幹雄著
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