ぜんぶ、いとしく思える/角田光代

 佐野洋子のエッセイは中毒になる。一度読めばもっともっと読みたくなって、新刊が出れば飛びつくように買う。私は二十年も前から佐野洋子中毒者である。
 なぜか。この人のエッセイには本音しか出てこないからだ。私たちはこんなにも本音に飢えているのだと、佐野洋子の文章を読むたび思う。
『問題があります』は、あちこちの雑誌に書かれたエッセイをまとめた一冊であることが、初出一覧を見るとわかる。いちばん古いものは一九七八年、新しいものは二〇〇八年。エッセイが掲載された雑誌は女性誌、情報誌、新聞、思想誌、パンフレットとさまざまだが、みな一貫して佐野洋子である。そして一九八〇年に書かれたものと二〇〇六年に書かれたもののあいだに、なんの差異もなく、やっぱりどれもが「今の」佐野洋子に思えるのである。これはこの作者が本音しか書いていないという証拠なのだと私は思う。本音は古びない。佐野洋子はぶれない。


 作者は、ずうっと本を読んできたが「読書は無駄だった」と、書く。「読書だけが好きだった私の人生も無駄だったような気がする」と、書く。六本木ヒルズに行ったか、表参道ヒルズに行ったかと訊く六十近い友人に「行くわけがねエだろ」と書き、十歳は若く見えるその友人を「年齢相応の中身は外見と同じに無いのである」と、書く。「必要とされていないのが老人」と、書く。
 もうどんどん書く。王様は裸だと叫ぶ少年のような勢いで、書く。
 でもこの作者は何かを糾弾しているのでもなければ、批判しているのでもない。自分の目に見えるものを見たままに書き、自分の手が触れたものを触れた感触そのままに書いている。
 作者の筆は曖昧さがまったくなく、いさぎよいが、それは正論ではない。世間一般的な正論をとうとうとのべるような野暮なことをこの作者は断じてしない。この人が快不快を書くとするなら、それは自身にとっての快不快である。善悪を書くとするなら、それは自身にとっての善悪である。それが正しいとは決して書かない。けれど読んでいる側には、それがまっとうな、すこやかなことに思える。正論というものとは違う意味合いで、至極正しいことに思えてくるのだ。
 先にも書いたが私たちは本音というものに慣れていない。本音を聞くことはもちろん、言うことにも。私たちはいつのまにかだれかから、本音を言ってはならないと教わり、あるいは自力で学び、それを実践して生きている。何か失言をすると世間一般から犯罪者のように糾弾される昨今、ますます本音を言わないばかりか、本音で考えることすら放棄している。「必要とされていないのが老人」などと、考えてはいけないことなのだ。そうして顔を上げ耳を澄ませば、老いてもなお青春だの第二の人生だの、世のなかぜんぶが本音で考えようとせず、きれいなことばかり言っている。
 佐野洋子はまるで私たちの身代わりのように本音で考え、何をもおそれず本音で書いている。本当のことを書かれたからといってだれもこの人を糾弾しない。必要とされないのが老人とはどういうことかと、くってかかったりしない。本音にたじろぐ前に、納得し、かつ、自分を疑ってしまうからだ。私は一度でも自身の目で見、自身の手で触れたことがあるだろうか。自身の本音の言葉で考えたことがあるだろうか。
 最後には「或る女」という小説が収録されている。語り手と腐れ縁の、はた迷惑な女の姿が浮かび上がる。愛とは何か旅とは何か、女とは何か男とは何か。二人の会話にげらげら笑いながら、ふと、そうしたものの本質にちょこっと触れたような気にさせられる。
 ちりばめられた本音の言葉を読みながら、読後の感想が、生きていくのもそう悪くない、なのだから、まったく不思議なのである。生きることにまつわる醜いことぜんぶ、いとしく思えるのだから、まったくたいした手品なのである。
(かくた・みつよ 作家)

『問題があります』
佐野洋子著

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