創刊記念特別対談 「小さな世界」に閉じこもることが、なぜ悪いのか?

「多様な世界に目を向けよう」。
これは「双書Zero」が読者のみなさんに届けたい、ひとつの大切なメッセージです。
なぜなら、自分の見たいものしか見ない人が増えているような気がするから。
どうして、自分の好きな小さな世界にいることが、もったいないのか。
どうすれば、自分を世界に開いていけるのか。
アカデミズムの枠を超えて活躍する、宮台真司氏と森岡正博氏に聞いてみた。



――現代は、これだけメディアが多様化しているにもかかわらず、仲間ごとに小さくまとまり、内閉しているように見受けられます。その弊害をどのように乗り越えていけばよいのでしょうか。


宮台 まず押さえたいのは、論壇誌はなぜ凋落したのかということと、人文系のウェブサイトはなぜ活況を呈しているのか、です。
「オピニオン・リーダー」の概念で有名な社会心理学者ポール・ラザースフェルドが、一九五〇年代に「コミュニケーションの二段の流れの仮説」を提起します。それによると、世論形成において、メディアの影響力はダイレクトに個人に届くのでなく、まず小集団のオピニオンリーダー層に届き、そのリーダー層が集団内のフォロアー層に影響を与えます。
 この仮説の暗黙の前提は「社会的な場」です。かつて、オピニオンリーダー層とフォロアー層が意見を交わす場があり、オピニオンリーダー同士が意見をかわす場がありました。ハーバマスの言う「コーヒーハウス」や、サロンですね。論壇誌に載った難しい論文について「あれは難しかったな」と誰かが言うと、「いや、あれはね」と説明する人がいたわけです。でも、いまはそういう場が消え、結局、論壇誌自体が需要されなくなりました。
 逆にネットでは、アルファブロガーがオピニオンリーダーの役割を果たし、ホットな論点を整理してくれています。でも、ネットは「摩擦抵抗の低いメディア」で、人の目を見られないといった「表出上の困難」や、ずっとイジメられてきたといった「尊厳上の困難」を隠せるので、誰でもコミュニケーションできます。だから、趣味が同じだとか、同じ話題やブロガーに興味があるといった、ピンポイントの共通前提で繋がれるのです。そう考えると、「コーヒーハウスを前提としたマスメディア」と違って、開かれた場にはなりにくい。それがいまのメディア環境ではないでしょうか。

森岡 私もほとんど同じ見方ですね。インターネットが出てきたときに、市民運動の強力なツールになると期待されましたけど、実際は宮台さんが言われている「島宇宙化」が起こっていますよね。
例えば今年、臓器移植法の改正がありましたが、私も生命倫理の研究者として、参議院の参考人になるなど発言をしてきました。残念ながら私の立場は否定されましたが、今回のように賛成と反対が極度に対立している場合、ネットは全然機能しないことを思い知りましたね。私と同じ考えの人は一瞬でつながって、最新情報も共有できる。でも、それは島宇宙になってしまい、外には届かない。と同時に、別の主張を持つ人たちが何を考え、どう動いているのか、部屋に座っているだけではまったくわからないわけです。
それは、論壇的な場が消えたからなんですね。そうした場があれば、Aという考え方と、アンチAという考え方があるということが可視化されて、優先的に議論すべき点や根本的な思想の対立点が何なのか、みんなで共有できる。政治的にはどちらかに決着が付くけれども、論争相手が大切にしていた点を織り込みつつ決着させるというソフトランディングができる。でも、今回はそれができなかった。それは、論壇的な場の喪失に加えて、ネット上で議論を彫琢する方法を我々がまだ見出していないということでもあります。

宮台 あるイシューをめぐってA案からC案まであったとすると、マスメディアはそれぞれの案のフォロアーだけ集めて対立させます。でも本来は、「この問題は賛成・反対では済まない、A案からC案までの各案の要素を複雑に組み合わせなければ解けない問題だ」と、一段深い理解へと繋げていかない限り、有効な議論にはなりません。
加えて、難病を抱えて臓器移植を望む人は、臓器提供を長期間待つので、マスメディアは取材しやすいし、感情的なフックも構成されやすい。一方ドナーのほうは、誰がいつドナーになるのかわからないから取材のしようがない。そういうメディアの「都合」によって、どの案を支持するのかが規定されてしまう部分が大きいのです。
 僕らが実際に取材して一人一人に話を聞くと、取材対象にはそれぞれの事情があり、取材する僕らに「感染」が起こります。大事なのは、対立する立場がある場合、両側に寄り添うこと。両方に感染して「それぞれもっともだ。だからこそどうしよう」という議論ができるようにしなければなりません。一九二〇年代にカール・マンハイムが展開した「浮動するインテリゲンチャ」という議論は、「知識人はどの立場にも寄り添う役割を負う」ということでした。「浮動するインテリゲンチャ」はどこにもコミットしないと理解されていますが、間違いです。

森岡 それで言うと、出版をはじめとするマスメディアは経営が厳しくて、長期的な視野が持てずにいるし、ネット上で創造的な議論を展開する方法もまだ見出せていない。それぞれが分断されているから、たとえ知識人が将来像を示したくとも、サポートしてくれる装置がない。

宮台 サロンやコーヒーハウスに相当するものを出版社が提供できたらいいですね。サロンのいいところは、互いの意見を開帳して終わりではなく、そうした場を継続させるインセンティブも提供していた点です。合意に達しようが達しまいが、意見を交わしたという事実性が意味を持つのです。社会にはいろいろな意見がある。しかし、両立しないものが共生する場が社会です。

森岡 「双書Zero」も、そういう場を目指しているわけでしょう。それで言うと宮台さんも私も気がついたら、後進を育てる年代です。私たちが蓄えたスキルを後進に手渡しながら、我々の知らないものを編み出してもらえるような場をつくっていくことが、我々の社会的責任になりますよね。


物事は単純じゃない


宮台 森岡さんも僕も多元的な活動をしています。共通して「物事はそう単純じゃない」ということを若い人たちに見せたいという意図があるんだと思います。僕自身のそれぞれの分野についての立場を総合すると整合性が取れないことがあります。僕はそのことに意識的ですが、若い読者には、僕の中にある矛盾をそのまま受け取るのでなく、矛盾していない部分だけを「いいとこ取り」する現象が広く見られます。

森岡 確かに宮台さんも私も、一見すると何をやっているのかわからない。でも、書かれたものをちゃんと読んでもらえれば、そこには一貫したものがある。我々は自分のなかの必然性によって分裂しているんです。お金や地位が目的ではなく、自分が考えたことを活字にして、みんなに読んで欲しい。それをしないと死んでしまうというくらいの必然性がある。

宮台 僕らの世代やもっと上の世代は、社会空間に矛盾する要素がたくさん同居するのを知っています。僕は子どもの頃、社宅住まいの新住民でしたが、やくざの子たちに仲良くしてもらいながら成長しまた。だから、先生が世間の常識に従って彼らを諫めているときにも、彼らには彼らの論理があり、彼らに転校生である僕が守ってもらっているという意識がありました。でも、その先生に僕が贔屓にされている。その状況にどう関わればいいのか、悩むわけです。こういう環境で育つと、矛盾や雑多なものに対する免疫ができます。
ところが、一九九〇年代後半にネットが拡がりますが、そのずっと前から、ニュータウン化=コンビニ化で「新住民的なもの」が広がり、雑多でノイジーなものが排除される傾向が強くなります。実際、見たくないものは絶対に見ない、という「過剰なゾーニング」が拡がり、社会がどう回っているのかを理解できない人々が増えるようになります。つまり、メディア以前に、成育環境にも問題があるわけですよ。

森岡 宮台さんの『日本の難点』は、単なる右翼でも左翼でもない、つまり、「右か左か、白か黒かじゃない」という前提をおさえているでしょ。それは本というメディアだからこそ、展開できたことだと思うんです。本の場合、複雑な主張をひとつの塊として書ける。ネット時代だからこそ、こうした本の特性は貴重だと思う。ブログは長い分量を書くのに適していないから、必要な複雑さがなかなか言えない。だからブログは、コメントをつけたり、リンクを張ることも含めて、瞬間芸なんですよね。
だからこそ気になるのは、ブログの書き手がたくさん出てきているのに、人気を得たブロガーが本を書いても、そんなに売れない場合が多いということ。ブログで力をつけた書き手の卵たちは、本という、一貫した意味のまとまりを書くスキルを培っていないからかもしれません。

宮台 ブログと書籍の違いに、編集者がいるかどうかがあります。僕が初めて論壇誌に書いたのは一九八九年ですが、当時は編集者が優秀で、論壇誌に寄稿することは編集者と論文を合作することと同じでした。語句の変更どころか構成やテーマの変更を要求されるのは当たり前。「それを俺が書くんですか」という変なテーマをワザと投げてきたりした。編集者と書き手がぶつかりあって良質な作品を生み出していたんです。でもブログではそうした異質さと直面せずに済みます。「双書Zero」の編集者は書き手と徹底的に戦って下さい。

森岡 と同時に私や宮台さんのような人間が、編集者と新しい書き手の媒介者となって、議論の出来る場を活性化させていくことも必要かな、と考えています。

宮台 その通りですね。森岡さんの『33個目の石』と僕の『14歳からの社会学』はよく似たスタンスで書かれているのに、ビーケーワンを見てもアマゾンを見ても読者がつながっていないのが分かります。普通に考えたら両方読むでしょう(笑)。これも「フォロアーで固まっていること」の典型例です。であれば、年長者である森岡さんと僕が連絡をとりあって、両方読むように読者に促す必要があります。昔はそういうコミュニケーションが当たり前でしたが、いまは読んだ本について話すサロンがないので、「次はこれを読め」と教えてもらえる機会がありません。「読みたいものを読みたいように読むだけ」ですから、必然的に世界が閉じてしまいます。


「すごみ」の継承


森岡 佐々木敦さんの『ニッポンの思想』が話題になっているから読んでみたんだけど、はじめは「内閉しがちな議論」の典型のように感じられたんです。この本そのものが、閉じた思想言説のなかで渦をまいて、外へ出ていないような印象があって。
 でも最後まで読んでみたら、「ニッポンの思想は、狭い枠内で議論をつくっては壊しているだけのシーソーゲームだ」ということを、この本自体があぶりだしている、非常に批評的な名著にも思えてきて(笑)。

宮台 一九五〇年代後半から七〇年代初めにかけての人文知の生産性は凄かったでしょう。マルクス主義VS近代主義という従来の二項対立にかわって、構造主義や記号学が入ってきました。フーコーもレヴィ=ストロースもラカンもチョムスキーもルーマンもいました。空間構成にせよ、普遍文法にせよ、親族ルールにせよ、何の変哲もないものがとてつもない機能を果たしていることが、次々に明るみになりました。
 ところが一九八〇年代に入ると、低レベルの左翼論壇から「社会構築主義」が出てきて、「社会は所詮つくられた虚構だ」となってしまう。でも「だからどうだ?」です。「社会が虚構であること」など二〇世紀初頭にはケルゼンが概念法学において表明していたことだし、「作為の契機」という言葉で有名な丸山眞男も、「社会の存立上不可欠な虚構がある」ことを一九六〇年代に述べています。虚構によって回る社会にタダノリしながら、虚構批判をすることなど、馬鹿なだけでなく非倫理的です。馬鹿な不届き者が増えました。

森岡 偉大な思想家には、自分の人生を懸けて、あえて虚構にコミットするという「すごみ」があったと思う。例えばフーコーもそうで、命を懸けて、ああいうことを考えざるを得なかった何かがあったわけでしょう。彼の本を読めば、その迫力が伝わってくる。日本の現代思想に欠けているのはその部分だと思うな。宮台さんは『日本の難点』の教育の章で、「すごみ」の伝達が大切だとおっしゃっていますけれど、思想でもそれは本質的なことだと思う。
 問題なのは、「すごみ」を受け取ったあとで、多くの場合、自分はどう「すごく」なるのかに向かわずに、フーコーの訓詁学へと入り込んでいく。結果として、「フーコー村」が出来て、それが日本の思想を制圧していく。そういう状況は、本当によくないと思いますね。

宮台 同感です。寺山修司を継承すると称する演劇人が、寺山の死の十数年後に青森で市街劇をやっていたのを見たことがあります。「おいおい、そんな白塗りの姿を寺山がいま見たらひっくり返るぞ」と爆笑しました(笑)。そのとき「寺山が生きていたら必ずケイタイを使った市街劇をやるだろう」と思いましたが、「すごみ」を継承するということは、寺山がいま生きていたらどうするかを考えることでしょう。

森岡 古典として残るものには、単に情報の質が高いだけでなく、どこまでも多面的に深く掘ってあるその深度が違う。宮台さんも『日本の難点』で言及していたJ・S・ミルも、原著を読むと、ミル自身が自由と秩序のどうしようもない矛盾を引き受けて、必死にどうにかしようと本を書いたことがわかる。その矛盾というのは、人間が社会を織り成すときに全員が抱えざるを得ないものなんですよね。ミルの思想はそうした矛盾を背負っているがゆえに強度と深度を持ち、古典として残っていく。
ひとつ気になっているのは、いまネット上で情報を得ているような人たちに対して、われわれが「すごみ」を得た経験をどう受け渡していくか、です。

宮台 僕はそれを「名物教師問題」と名付けています。僕らが学生の頃は名物教師がいました。僕の場合は廣松渉と小室直樹でした。彼らは授業には三〇分以上遅れてくるし、小室直樹にいたっては酔っぱらっていました(笑)。そういう名物教師から僕らが何を受け取ったかというと「たたずまい」です。森岡さんの言葉で言うなら「必然性」を受け取ることで、僕らは自分なりの「たたずまい」を作ろうとしました。それができれば、どんなに変転めまぐるしい浮き世であっても、揺らがずに生きていけるだろうと思えたものです。
廣松や小室の授業はすごく難しくて、よくわからない。でも、この人はすごい人だという確信があったから、皆がついていきました。でもいまは、難解な授業をすると、大学の事務所に「難しい」というクレームがいく(笑)。僕のゼミも「難しすぎる」「テンションが高すぎる」というクレームがつきます(笑)。でも大事なことは、中身が理解できなくても「ここには何かがあるはずだ」と思えるかどうかです。

森岡 それには大学の大衆化もあるんでしょうね。僕の大学でも、今から一〇年ほど前までは、気ままに生徒を当てて、その場のノリで講義を進めていたけど、いまそれをやると、生徒から「ちゃんと教えてほしい」と言われてしまう。だから、学部の授業は講義形式に切り替えたんです。

宮台 僕も同じ課題に直面して講義形式にしましたが、授業の内容に関しては「学生のニーズには絶対応じない」という方針を貫いています。学生の理解力に合わせて易しくしたりしません。世の中はやさしく教えたら本質が逃げてしまう問題ばかりなのですよ。「授業が理解できなければ、来るな」と言っています(笑)。

揺らがない存在になりたい若者たち

――なぜ、現代の若者は「ちゃんと教えてもらいたい」のでしょうか。

宮台 不安だからでしょう。ネットで検索をすると情報が得られる時代に育つと、「なぜ自分は、いまこれを知ろうとするのか」という理由が必要になります。でも、その答えはわからないままです。僕らの頃は、マルクス主義と近代主義と精神分析学と構造主義くらいしかなかったから、目移りすることがなく、「皆が知りたいことが知りたい」で済みました。

――では、いまの若者が知識を得ようとしても、何から学べばいいか分からず、大変ですよね。

宮台 選択肢が多いという意味ではしんどいでしょう。ただ、いまの古典ブームは、「流行にとらわれることなく、本当に自分に必要な本を読んで、揺らがない存在になりたい」という欲求の表れでしょう。
背景には竹内洋さんの言う「教養の崩壊」があると思う。映画業界の界隈で話すと嫌がられるのですが、一九七〇年代までの映画監督は大半が東大や早稲田卒でした。つまり、かつては教養ある者が表現していた。ところが「教養の崩壊」によって、「映画が作りたいなら映画専門学校」「海外で働きたいなら語学系学校」みたいになって、骨と皮だけのプラグマティズムが跋扈するようになりました。
これでは、先ほど述べた「必然性」や「たたずまい」を自己形成するための教養を身につけることは到底望めません。これは若い人にとってかわいそうなことです。昨今では、「教養=自己形成」に関する不全を、本人が自覚していますから、なおさらそうです。だからこそ「実用を超えた教養=自己形成」へのニーズが高まっているのです。

森岡 「教えてくれ」の背景には、プラグマティクな意味と実存上の意味があると。

宮台 そうです。それは僕らにとっては追い風なんですよ。そこで「双書Zero」はどうするのか、という話になります。

森岡 後進を育てたい我々の思いと、良書を長く流通させたい出版社の思いは相反することではないですよね。だから、双方にとってプラスになる関係を「双書Zero」には見つけてほしい。
 それは、理念だけを語っても見えてこないから、実際にやりながら見つけていくしかないですよね。「結局、儲からないと意味がない」というニヒリズムに陥ってほしくないのは、私たちだけでなく、多くの人の思いでもあるのだから。

(みやだい・しんじ 首都大学東京教授、社会学者
 
もりおか・まさひろ 大阪府立大学教授、哲学者


『ハタチの原点 仕事、恋愛、家族のこれから』
阿部真大著














『平成オトコ塾 悩める男子のための全6章』
澁谷知美著



『朝日平吾の鬱屈』
中島岳志著

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