ピカソ──この不一致の極み/椹木野衣

 本書のあとがきのなかで岡本太郎は、「日本で、いったいピカソ、あの世界、時代をひっくりかえした真の芸術の凄み、力が、ほんとうに理解されているのだろうかということについて、いくら言っても言い足りないという思いがある」と書いてある。それはほんとうだと思う。
 では、日本でいまピカソと言ったとき、どういう感じなのか。
 もちろん、少しでも美術に関心がある人でピカソを知らぬ人はいまい。昨年の暮れにも大規模な展覧会が国内で開かれ人気を博したと聞く。だから、その名声はいまだ衰えず、と言うべきなのだろう。が、その受け取られ方には以前と随分違うものがある気がして仕方がない。
 私が子供の頃、すでにピカソは美術界で巨匠中の巨匠だった。だが、同時におおいに問題含みの存在だった。ピカソを語るときには必ず「一体これは芸術なのか?」「子供の落書きとどこが違うのか?」といった疑問符がくっついていた。ゆえに毀誉褒貶も激しかった。あんなものは芸術として認めない、という人も沢山いたはずだ。
 けれども、それはわるいことではない。というより、美をめぐり、かくなる論争を起こす力こそが芸術の原動力なのだ。そうでなければ、人間はずっと同じものを美しいとして済ませてしまっていたはずだ。「桜の花が奇麗だ」「海は雄大だ」「日の出こそ崇高の極み」――どれも不変の美かもしれないが、同時に当たり前のことであって、おもしろくもなんともない。この「万人が一致する当たり前の美では退屈だ」というところにこそ、わざわざ人が芸術をつくり始める理由がある。である以上、そこから先では意見が違うのがむしろ当然。美を巡っては答えをまとめようとする営みこそ疑われるべきだ。この芸術における不一致の極みこそがピカソでなければならない。
 でも、ふと気付くと、そのピカソでさえ、他のモダン・アートの巨匠たちとそんなに違いがなくなってきてはいないか。あるいは、ピカソのなかでも技巧みで叙情溢れる「青の時代」などに人気が集中している。それは悪い兆候だ。通俗的な共通見解をつくりやすい「印象派」や「後期印象派」とピカソとは、やはり決定的に違っていなければならない。学校で教えるようなスタティックな「鑑賞」や「教養」を受け付けず、見る人をハラハラドキドキさせてくれなければピカソじゃない。一瞬わが目を疑い、「なんだこれは!」と思わず叫んでしまうほどモーレツな異化作用。それこそがピカソ芸術の真骨頂なのだ
 と、少々興奮してこんなことを書いてしまったのも、きっと本書を読んだ効果がジワジワと効いて来たからにちがいない。
 宗左近が聞き手となり岡本太郎がピカソについて説いたこの「ピカソ講義」は、実のところ良質の「ピカソ入門」とはいえない部分がある。岡本太郎はピカソについて語ると言いつつ全編にわたり話を己に引きつけまくっているし、ピカソの人間としてのドラマに光を当てすぎた結果、個々の作品についての具体的な分析がお留守になってしまっているところもある。
 しかしそれでも、本書は21世紀にピカソを再発見するために、またとない機会を提供するだろう。この本のなかで二人は、ピカソの生涯にわたり私生活も含め満遍なく話をしているが、実は一貫して同じことを語っている。それは「ピカソの絵が従来の基準からほんとうに度外れていた」こと、そして同時に「そんなとんでもないものが、なぜだか多くのひとを引きつけた」という謎である。あらためて考えてみると、たしかに不思議なことだ。
 この問いに対して、二人はピカソの抽象画は他の理論的な絵と違い、ヨーロッパを脱するような生々しい物性(つまり西洋を超えた何か)を持っていた、とか、ピカソの新しさは単なる珍しさではない、徹底して19世紀の芸術家であったピカソが、同じくらいの強さで自己を否定することで新時代に突き抜けたからだ、とか、いま読んでも斬新な意見がポンポン飛び出して来る。そして、こうした意見の応酬を経てあらためてピカソの絵を見ると、それがなんだかほんとうに得体の知れない不気味なもの(あるいは大笑いさせる何か)に見えてくるのである。わたしたちは、そこにこそ立ち戻らなければならない。
(さわらぎ・のい 美術批評)

『ピカソ[ピカソ講義]』
岡本太郎 宗左近著
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