回想の時間のあとに/菅野昭正
まず最初、「明日への回想」という題を思いついた。「ちくま」に回想記を書いてみませんか。そんな誘いを受けて間髪を容れずというか、題だけはすぐに決まった。この先そう長いはずはないにしても、残された未来のために、これまでほったらかしにしてきた過去と対面しようという下心が、働いたのだろうか。
それで出発点に立ったものの、記憶の井戸から古い昔の水を汲みあげる筆をどこへむければよいか、確かな見通しはすぐさま開けてくれなかった。というのも、きっと通ってきた道筋を点検したことがない報いだろうと、我ながら殊勝にいささか反省する気にはなった。それがかえって、最初の一筆を動かす後押しをしてくれたのかもしれない。
けれども、前途の見通しと反省とは別である。だからして、連載の四回目くらいまでは、行先も定まらず針路も不安定な船で航海するような気分だった。それでも、不安はあまりなかったと思う。慣れないことであるにせよ、記憶の井戸を掘りかえす仕事の枠は動かしようもなく、しっかり嵌められていたからである。
導きの糸らしきものがようやく見えてきたのは、本を読むことを覚えた中学生の頃のあれこれが、回想の網に引っかかってくれたときだった。あの戦争の末期、灯火管制を強制された暗い電灯の下で、未知の世界を知りそめた熱に浮かされて、手当りしだい濫読する習慣の虜になったのが、六十何年か経った今の今まで、尾を曳いているらしいと思いあたったのである。
それ以来、名著雑書とりまぜて、本を読むのにずいぶん時間を使ってきた。主として文学に関わる本だが、なにしろ濫読雑読が専門だから、この一筋の道に繋がるという純粋といえば純粋、しかし狭い門をくぐる覚悟はなかった。文学の枠をもっとひろげるばかりでなく、その周辺のことも視野にいれなければと、自分ひとりのためのマニフェストはなかなか遠大であった。
そういう事の次第を思いだすまま手繰りだしてゆけば、回想の記としてなんとか恰好がつくのではないか。もっとも、毎回その自家製の指針にしたがって、首尾よく筆がすらすら運ぶという奇蹟はおこらなかった。あちらに揺れ、こちらに傾くのは毎度のことだった。しかし、それでも、いま、こうして回想を書く身になっているのは、どういう風の吹きまわしのせいであったのか、回を重ねるごとにはっきり望見できるようになったのも確かである。
話の方向がすこし変るが、××家、××者とみずから名乗るのは、昔からたいへん苦手だった。だが人様からそういうレッテルを貼られるのは、社会的な身分保証のようなものだから、これはどうも拒むわけにはゆかない。ただここで勝手な希望を記すのを許してもらえれば、その昔に思いついた門戸をなるべく大きく開くという目論見もあわせて、文学の徒とだけ認めてもらうのに越したことはない。それならば、なんとなく自由に身動きができるような気になれるから。
『明日への回想』を書いた貴重な収穫はといえば、文学の徒となる土台が曲りなりにも作られたのは、戦争中から敗戦後にかけてであったと思い知らされたことである。一九四〇年代はじめから一九五〇年代のなかばまで、あの混沌と騒乱の十数年は、若者にとって、ものを考えるためのまたと得がたい教科書の役を果たしてくれたのだった。いまにして思うに、文学から離れないようにしたいと思案したのは、あの時代の喧騒の気流をたっぷり吸わされたせいでもあるらしい。
それにしても、回想というのは難しい。記憶の確かさ不確かさは別にしても、何を書き何を書かないかという選別は、最後まで迷いの種でありつづけた。そして本当に大事な話題が欠けていないかどうか、神のみぞ知ると言いたいそんな問題が、書き終えたあとも宿題のように残るのに、いささか驚かされているところである。
(かんの・あきまさ 文芸評論・フランス文学)
『明日への回想』
菅野昭正著
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