なぜ「ルールづくり」は失敗するのか?/小島寛之

「ピッチャーのビールを形の異なるコップを持った二人で公平に分けるにはどうすればいいか」。これは、ちょっと気が利いたパズルだ。答えは最後に書くが、この問題のテーマが「公平とは何か」であることはお察しいただけるだろう。
「公平」「公正」「平等」「自由」「効率」といった問題は、私たちの社会にとって避けることのできない最重要課題である。ところが、このうるわしい概念たちを全部ひとまとめに追い求めようとすると、これが一筋縄では行かないのである。このことは皆さんも多かれ少なかれ生活の中で実感するものであろう。そこで、ここでは筆者の身近な経験からお話ししよう。
 筆者は、ずいぶん前、塾の主任をしていたことがあった。その塾では、レベル別クラス編成をしており、学期ごとに実力テストによって生徒のクラス昇降を実施していた。何でもないことのようだが、このテストに関して実にさまざまな問題が生じたのである。
 生徒たちは二つの曜日の一方を選んで通っていたので、それぞれの受講日にテストを受けるのが普通だった。ところが、テストの週だけ後の曜日への臨時変更者が続出し、前の曜日の受験者が不利になったため、公平性が問題になった。そこで、どちらの曜日も避け日曜日に一括してテストを実施するよう変更した。すると、学校行事で受験できないがクラスを落とさないでほしいという陳情があいついだ。仕方なく、日曜日に午前、午後、夜とどの時間帯でも受験できるよう便宜を図ったら、なんということか、退会することを決めている生徒が午前中に受験し、解答用紙を提出せず問題とともに内緒で持ち帰り、午後に受験する同級生に渡して不正行為の手助けをしたのである。これは、塾スタッフには想定外の出来事であった。結局、テストは日曜日に一回だけとなり、塾生の便宜は失われることとなった。
 また、生徒の勉強の助けになればと答案を返却することにしたとき、返却答案を微妙に改竄して採点ミスだと苦情をいい、上位クラスに上がろうとする不届き者が散見されるようになった。そのため、膨大な答案を返却時にコピーして保管せざるをえなくなった。
 これら一連のできごとで筆者が身にしみたのは、テストにおいて「公正」や「自由」や「便宜」を保障するには大きなコストを要し「効率」が犠牲になる、ということである。逆に「効率」を優先するなら、「公正」や「自由」や「便宜」に目をつぶらざるをえないことになる。
 このような問題が生じるのは、人々の人生の目的や生き甲斐が多様だからである。たいていの人は、自分なりの価値判断に従って、与えられたルールの中で最善と思う行動を選んでいる。その価値判断をあなどり、手前勝手な推測のもとで、よかれと思う安易なルール変更をすると、想定外のとてつもないパンドラの箱を開いてしまうことになる。近年起きたいくつかの社会問題、たとえば、耐震偽装問題や地方の医師不足問題や汚染米流用の問題などは、政策当局が人々の価値判断にもとづいた行動原理を読み誤って起こした問題の典型例ということができよう。人間というのは、思ってもみないことにこだわりを持ち、想像を絶する価値判断から意外な行動をするものなのである。
 筆者は今回、「公正」「平等」「公平」「自由」「効率」といったものを経済学ではどう考えるか、そんな本を書いてみた。社会のルールを上手に定めるには、人々の嗜好や目的、価値判断をわきまえなければならない。そのような課題に「数理的に」アプローチできることこそが、経済学という学問の真骨頂なのである。ちくま新書『使える!経済学の考え方』では、ピグーやセンやロールズといった有名な経済学者・哲学者たちが、どのようにして「公正」や「平等」や「自由」を問題にし、定式化してきたか、その発想をできるだけ平明に解説した。
 さて、冒頭のビールの問題の解答だが、それは「一方が公平だと思うようにビールを分け、他方が好きなほうのコップを取る」というものである。実は、この問題は人数が三人以上でも解答が存在する。その答えは、前掲のちくま新書でどうぞ。
(こじま・ひろゆき 帝京大学准教授)

『使える! 経済学の考え方
 ――みんなをより幸せにするための論理』
小島寛之著
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