室内の秘密/野矢茂樹

『公案 実践的禅入門』(秋月龍珉、一九六五年)という本がある。私は、坐禅にはわずかばかり縁があり、坐禅することも好きなのだが、禅の本はほとんど読まないので、不明にしてこの本のことも知らなかった。このたび、ちくま学芸文庫に入ることになり、ついてはこの本について世辞を書けとの注文をもらい、引き受けるかどうかは読んでから決めると、読ませていただいたのだが、いやあ、この本はおもしろい。いやいや、世辞ではなくて。まじで。
 学生の頃、大学の坐禅サークルの一員として、何回か三島にある龍澤寺という寺で、雲水に混じって「接心」と呼ばれる一週間の坐禅に参加した。その中で、一日に一度「入室参禅」と呼ばれる時間がある。老師の部屋に入り、一対一で問答をするのである。総参のときには全員が行かされる。合図の鐘を叩いて、叉手当胸(胸の前で掌を重ねた姿勢)をして歩いて行き、室内に入る。まあ、私の場合には、「どうじゃ」「脚が痛くてたまりません」「そうか。がんばって坐れ」、ってそれほどたわいなくはなかったが、だいたいそんなものであった。だが、プロになろうかという雲水はそれでは済まない。
 臨済宗であるから、公案を課される。ひとことで言えば禅問答である。それに対して適切な応答をしなければいけない。オーケーが出ると次の公案が課され、先に進む。しかし、彼らは室内でいったい何をやっているのだろう。私自身は公案をやっていなかったので、いつもそれを疑問に思っていた。あるとき「アタマを空っぽにしてまいりましたっ」と若い雲水の大声が響いたことがあったが、言っちゃあ悪いが、これなら私と大差ないかもしれない。いったい、「仏とは何か。クソかきべらだ」みたいなものを与えられて、何を答えればいいというのか。まことに、謎であり、秘密である。
 だが、禅の教えというものはすべて白日の下にある。本書は、さすがに「ギリギリのところは、やはり残して教育的に秘しておかねばならない」としてはいるが、その点を除けばまさに室内の秘密を白日の下に見せている。例えばこんな公案がある。山霊祐禅師曰く「私は一頭の水牛に生まれ変わろう。その牛の脇の下に山僧某甲という五文字を書いておく。このとき、これを何と呼ぶか。山の僧と呼べば、それは水牛だ。だが水牛と呼べば、山の僧霊祐だ。さあ、どうする」。
 本書はこう続ける。こんな公案を課せられると、少々参禅の心得のある者なら、まず理屈なしに牛になりきって、四つんばいになってモーとやるだろう。事実それでよしとする一派もある。しかし真正の師家なら、もちろんそんなことで許すはずはない。そこで次には必ずや叉手当胸でもして、山の僧某甲とやる。まずここまではたいていやれるが、これもいかんと言われて、誰もが行きづまる。これからあとは、だんだんしどろもどろになって、入室してはふられ入室してはふられ、ということになる。こうして窮すれば窮するほど修行者は自然に深い禅定へと澄みきってゆく。ころあいを見て師家が一言、脚下を照顧せよと(または“回光返照”と)ヒントを与える。これでたいていははっと気がつく。これでも気づかぬようなら、まだこの公案を課する値うちのない学人だったということになる。諸君、一つ試みに答えてみませんか。」
 下世話で申し訳ないが、なんだか、長年覗いてみたかったものを見せてもらった感じである。だがもちろん、覗き趣味を満足させるのが本書の目的ではない。素人だけでなく、在家、修行僧、そして師家たちをも厳しく咤する愛情と厳しさが、本書には満ち満ちている。私としては、「結跏趺坐ができなかったら、坐禅をしたと言ってはならぬ」の一言が突き刺さる。私は両脚を組めないので、片脚だけ持ち上げる半跏趺坐で済ませているのである。しょうがない。以後、「坐禅をしています」とは口にすまい。坐禅のようなことをしています。
 参禅して、「はい、ここまで」という意味で、老師が鈴を鳴らす。チリンチリン。すごすご。
(のや・しげき 東京大学教授)

『公案――実践的禅入門』 詳細
野矢茂樹・著

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