「ネットの奥を見ぬく」/西垣 通

 書籍の世界にもネット文明の波がひたひたと侵入してきた。グーグルの電子図書館構想の行方に、ウーンいったいこれからどうなるのと首をひねっていたら、今度はアマゾンが「キンドル」という電子ブックを日本でも売り出した。A5判の本よりちょっと小さめのしゃれた携帯用端末で、厚さは一センチもない。それなのに、およそ一五〇〇冊分もの書籍を収納できるという。ネットから簡単にダウンロードできるそうだ。
 今はまだ英語の文章しか読めないが、近々たぶん日本語対応の機種も発売されるのだろう。例によって、近いうちに図書館なんていらなくなるとか、紙の本は消えるとか、気の早いことを言って騒ぐ人物もいる。
 けれども、当面、そんな大変化はおきないだろう。レコードからCDへ、VHSビデオからDVDへと、メディアの変化が速いのはたしかだ。だが、それはインターフェイスではなく、むしろ情報貯蔵形式の問題である。人間はあまりインターフェイスの形式が変わることを好まない。紙の本は少なくとも数百年前から、われわれの目や手になじんできた。読み流せる新聞雑誌類はともかく、線を引いたり書き込みをしたりできる紙の本が消えることなど、まずありえない。
 それにしても、米国からソフトやハードの新製品が発売されるたびに、なぜ世間はかくも大騒ぎするのだろうか。話題になって欲しい業界関係者ならともかく、時代に遅れまいとあまり右顧左眄するのはハシタナイ。ネットの登場は文明史上の大事件であるにせよ、表層の動きに惑わされると、かえって本当のインパクトが見えなくなってしまいそうだ。いったいネットはわれわれをどこに連れて行くのか。今のIT(情報技術)の使い方は人間の本性に合っているのか。
 ……という次第で、少し頭を冷やし、じいっと目を凝らしてネットの奥を眺めてみることにする。
 ITのおかげで仕事も遊びも便利になった。その反面、生活のテンポはおそろしく速まり、われわれは急に忙しくなり、時には自分がまるで情報処理機械の部品のように感じられてくる。この切迫した緊張感は皆が共有しているものだ。
 その一方で、ネットが一種の息抜きの場、解放空間になっているという声もある。不景気でうっとうしい世相だ。市場原理と自己責任の論理がわがもの顔で横行し、「お前の価値はこんな程度」と正札をつきつけてくる。うつ病にならないためには、ネットで別人格に変身するのが一番てっとり早そうだ。日ごろの自分なんか忘れ、かっこいいアバターになってネットのなかで暴れ回れば、この人生もすこしは明るくなるのではないか。
 そう、ネットで仮面をかぶるのも、時には気晴らしになる。わくわくすることも多い。だが、「ネトゲ(ネットゲーム)廃人」という言葉もあるように、ネットに耽しすぎるとだんだん自分のリアルがわからなくなり、不安も増してくるはずだ。
 ネットのなかの自分と、こうして呼吸している自分……身体も脳も一つなのに、心に複数の人格が宿るというのは、いったいどういうことなのか? 頼れるリアルはどこにあるのか? 度が過ぎると自分がバラバラになり、いわゆる解離性人格障害に近づく、というのは本当なのか?
 そんな問いかけのなかから、少しずつ見えてくることがある。それは米国IT企業の動向や新製品のうまい利用法ではなく、別次元の問題のすがたである。
 つまり、情報の本質とは何か、そもそも人間の心とは何か、ということだ。ネットが根源的問題をつきつける。
 考えてみると、われわれはあまりにネットやITというものを、利便性や効率やコストといった面だけからとらえすぎてはいないか。そういう偏った見方が、人間を情報処理機械の部品におとしめる誤った方向に、われわれを連れていくのではないだろうか。……ネットの奥はふかい。
(にしがき・とおる 東京大学教授)

『ネットとリアルのあいだ ――生きるための情報学』 詳細
西垣通著

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