定食楽入門/南陀楼綾繁

 海外旅行で困るのは、食事するときだ。食べること自体は楽しみなのだが、たくさんあるメニューの中からひとつひとつ料理を選び、慣れない言葉で注文するのがたいへんだ。どこの国のレストランでも(かなり庶民的な店であっても)、日本で云う「定食」とか「セット」をあまり見かけないので、基本的には一品一品選んで組み合わせるしかない。注文し終わると、ひと仕事した気分になる。
 それにひきかえ、日本の大衆食堂はじつに気楽だ。メニューは紙に書いて壁に貼ってある(その日できない料理は外されている)。入口のところに「日替わり定食」の内容が書いてあるから、「定食」とだけ云えば、ただちにそれが出てくる。勝負が早い。「半ライス」「味噌汁を豚汁に」「納豆追加」などの細かい注文にも対応してくれる。ガラスケースにホーレンソウのおひたしやポテトサラダなどの小鉢が並び、そこから選ぶタイプの店もある。
 大衆食堂にはいろんなお客さんがやって来る。店の前に車を停めて、せわしげに定食をかきこんで出ていくタクシーの運転手もいれば、昼間からウーロンハイ飲んで、ご機嫌のおじさんもいる。女性一人では入りにくいだろうが、カップルや家族連れはよく目にする。それらの客のニーズに日々こたえてくれる大衆食堂はエライと思う。
 これまでに『定食バンザイ!』『かながわ定食紀行』などを著わしている今柊二は、本書で「定食学」を提唱している。それが何なのかは、ズボラにも文中のどこにも示されていない。ずいぶん適当な学問である(もっとも、著者が発行しているミニコミ『畸人研究』でも、そのズボラさ、適当さが魅力になっているのだが)。
 著者になり代わって私が定義するならば、「定食学」とは、「ご飯、汁、おかずの三要素で成り立つ定食の歴史と現状を、フィールドワークと文献調査によって考察すること」となるだろう。
「定食学徒」たる著者は、日本全国を駆けめぐって、定食を渉猟する。さきに挙げたような大衆食堂だけでなく、中華料理屋、洋食屋、喫茶店、ファミリーレストラン、ファストフードなど、さまざまな店で「定食」(および、その延長線上としての「セット」)に出会うことができる。そのひとつひとつの味やボリュームを、著者は嬉しそうに記していく。安くてうまく、量の多い定食のある店は古くからの繁華街や学生街に多い。だから、定食を求めて歩くと、その街の歴史や性格も見えてくる。
 著者は定食の起源を、江戸の元禄期だとする。江戸という都市に人口が集中し、参勤交代の武士をはじめ、独身・単身の男たちのニーズを満たすために、外食文化が発達したからだ。食事の回数も、それまでの朝・昼だけから一日三食へと変わっていく。それ以後、産業や制度、食習慣の変化の影響を受けつつ、「定食」は進化していった。一九七〇年代以降、流通システムと調理環境の変化により、チェーン店に同じレベルで料理を供給する「セントラルキッチン」というシステムが生まれたことなど、料理を生み出す技術についても着目している。
 新しい店や変わった定食を見つけるたびに、あるいは、古本屋で定食に関する文献を手にするたびに、著者は興奮し、ヨロコビにうち震える。定食があるだけで毎日が楽しい。それが「定食学徒」だ。「定食学」とは、つまり「定食楽」なのである。
 著者は今後の調査・研究予定として、「海外の日本定食」「文学と定食」などのテーマを挙げているが、ほかにも、「駅前食堂の歴史」とか「大衆食堂の屋号(なぜか同じような店名が多い)」などの調査を期待したい。
 最後にひとつゴシップを。数年前、著者と一緒に某国立大学前のレストランに入ったことがある。やたらと濃いだけの味付けとむやみな量に辟易していた私に、今さんは「ステキな味でしょう、ココは!?」と力強く云った。どんな味の定食でも美味しく食べられる寛容さこそが、じつは「定食学徒」の第一の必須条件かもしれないのだった。
(なんだろう・あやしげ ライター・編集者)

『定食学入門』 詳細
今柊二著

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