『源氏物語』の面白さが分かる/大塚ひかり
中学生の頃から古典ばかり読んでいた私は、当然のように『源氏物語』にもはまって、出した本の大半も『源氏物語』絡みだった。しかし今回、全訳してみて、
「自分は『源氏物語』の面白さを半分も分かっていなかったのだ」との感慨がこみあげている。
というのも『源氏物語』には多くの性愛が描かれているにもかかわらず、ダイレクトな性愛描写がない。なのに、物語の隅々までエロスがにじみわたっている。それは、
"男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり〟という一文で源氏と紫の上の初夜を描くような、間接的な表現ゆえかと、以前の私は思っていた。
たしかにそれも大きいのだが、今回訳して気づいたのは、それ以外にも、『源氏物語』は、花やら月やら流行歌など、当時の人が親しんでいるあらゆるものに託して、性愛を表現し、それが物語の伏線にもなっているということ。
たとえば源氏が須磨で謹慎中、明石の入道の屋敷に迎えられたときのこと。入道はこうした機会に、娘と源氏をなんとか結婚させたいと思っていたが、地方官僚ふぜいの入道と、皇子の源氏とでは身分に大きく隔たりがあって、入道はそうと言い出せないでいた。
そんなある夜、源氏と入道は管弦の遊びに興じ、
“伊勢の海ならねど、清き渚に貝や拾はむなど、声よき人にうたはせて”……ここは伊勢の海ではないけれど、「清き渚に貝や拾はむ」などと、声のいい人に歌わせて……という展開になる。
この一節で、当時の人は「源氏と明石の君はこれから結ばれるんだな」と察し、事実、そのあとの話の流れはそうなる、ということが「伊勢の海」について調べると、分かる。
「伊勢の海」とは、当時、宴会の席などでよく歌われていた「催馬楽」と呼ばれる流行歌の一つで、多く性的な裏の意味をもっていた。「伊勢の海」の歌詞は“伊勢の海の、清き渚に、潮がひに、なのりそや摘まむ、貝や拾はむや、玉や拾はむや”で、 木村紀子の『催馬楽』によると、貝は女性、玉は男性を暗示する。伊勢の海に集まって、名を名乗る人も名乗らない人も、貝を拾おうよ、玉を拾おうよ、皆で遊びましょう、というわけだ。何百年の歴史をもつ田楽祭などを見ても、夫婦和合のしぐさをとりいれることで、五穀や海山の“幸”の豊穣を祈り、人の“幸”を祈るというパターンが貫かれているが、めでたい席で歌われる催馬楽も同じこと。この催馬楽が、『源氏物語』にはほかにもたくさん取り入れられていて「梅枝」「総角」「東屋」などの巻名も、同じ題名の催馬楽がもとになっている。
催馬楽だけではない。“月”が“宿”やら“山”に“入る”という歌があると、その後、男女は朝を共に迎えていたりして、ああ二人はやったんだな、あの歌は性交の暗示だったのだと分かる。“花の紐解く”といえば、男が女を欲望の目で見ていることを暗示していて、必ず、その後、性的な事件が起きたりする、などなど……。
『源氏物語』にはダイレクトな性愛描写こそなけれど、性を暗示する表現が随所にあって、それが分かると『源氏物語』の筋も中身も面白いように分かってくるのだ。
このように『源氏物語』が性に重きを置く背景には、性的パワーがあらゆるものに“幸”をもたらす根源、と昔の人が見なしていたことと、娘の産んだ皇子を皇位につけてその後見役として一族が繁栄するという、当時の政治の仕組みがあるだろう。
性が政であり生でもあったそんな時代に、『源氏物語』がダイレクトに性愛を表現しなかったのは、作者の美意識もあろうが、性愛そのものがもつあやうさとはかなさを作者が痛感していたからではないか。そうも私は考えていて、実際、あやふやなうちに始まる男女関係は、『源氏物語』では常に砂上の楼閣のような頼りなさでもって登場人物を苦しめることになる。
そこが分かると『源氏物語』は千年残ってきただけに、現代小説よりずっと面白い。その面白さを、全訳では「ひかりナビ」を随所に挟み込むことで伝えたつもりである。
(エッセイスト)
『源氏物語(全六巻)』
大塚ひかり訳
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3