東京のフネさん/猪谷千香
二十年前、古い木造の実家を建て直そうという話になった。家族は部屋をすべて洋室にするつもりだったが、祖母がどうしても和室を残してほしいと譲らなかった。今時、畳なんてと家族に呆れられながらも祖母が死守した和室には、桐箪笥が四棹、運び入れられた。どの引き出しにも、きものがぎっしり詰まっている。
「その、綴れの帯を出しとくれ。帯締めは、道明の、この色が合うんじゃないかい」。和室の真ん中にちょこんと座り、手よりも口が先に動くのは、八十歳を超えた祖母。命ぜられるがまま、「はいはい」と引き出しから畳紙を出してくるのは、三十歳を超えた孫娘の私。きものが趣味の祖母と孫娘といえば、何やら優美な香りがただようが、実態は三度の飯よりきものが好きという病い、着道楽の師弟だ。
小さい頃から痩せっぽちで、腰紐や帯を締められるたび、ふらつく孫娘に、「枯れ木に着せてるみたいだね。もうちっと、しゃんとしないかい」と着付け担当の祖母は悪態三昧。そのうち、「これがほんとの、マゴにも衣装だよ」と駄洒落のおまけがついて、きもの姿は完成する。たいそう口の悪い箱屋だが、祖母の着付けはキツ過ぎず、ユル過ぎず。絶妙のバランスで身体にぴたりと添うのが不思議だった。
我が師、祖母は大正生まれ。東京・両国で写真館の娘として育った。写真師だった曾祖父は、目に入れても痛くないほど祖母をかわいがり、銀座の三越のショーウィンドウに飾ってあった最先端の反物を買い与えたという。お陰で、すっかり着道楽。裕福でもないのに、せっせと買い集めたきもの、箪笥四棹が祖母のご自慢。その母、曾祖母は浅草育ちで大島紬をすっきりと着こなす粋な下町の女性だったから、先祖代々、着道楽の遺伝子が我が家には刷り込まれているのかもしれない。
数年前、三十歳になって憑きものが憑いたように、きものにはまった。仕事と遊びの目まぐるしい喧騒の中で二十代が過ぎ、ファッション誌の流行も一巡して、いつも見たことのあるような洋服に飽きていた。そんなとき、出会ったのがきものだった。小さい頃から、冠婚葬祭だけでなく、お出かけのたび、祖母にきものを着せられてはいたけれど、自分できものを選び、着付ける楽しみは、これまでにない経験だった。祖母が、あれだけきものにこだわってきた理由も、すとんと心の中に落ちた。以来、和室で祖母との着道楽修業が始まった。
修業が進むにつれ、どうやら祖母や曾祖母のきものは、私が知っている礼装中心の現代のきものと違うらしいと気づいた。曾祖母の古い写真や、祖母の着付けを見れば見るほど、きものの教本からかけ離れてゆく。衿なんてぴっちり合わせないし、使う紐も少ない。縞のきものに博多帯、足下は下駄でなくっちゃならない。絹ではなく、木綿やウールのきものを着ることもある。家事をするときには、白い割烹着。それは、まだ普段着だった頃の、東京のきものだった。
まるで、サザエさんのお母さん、フネさんのよう。なだらかな肩、粋に小さくまとめられた帯のお太鼓。清潔な割烹着で、みんなに素敵な笑顔をみせてくれる。まだ、東京にはそんなフネさんたちがいるかもしれない。和室を飛び出し、普段着きものを着こなしている先輩たちを探して歩いたのが、拙著『日々、きものに割烹着』だ。
表紙で微笑むのは、日本橋の喫茶店を切り盛りしていた銀座育ちの美人姉妹。色違いの江戸小紋をあつらえたり、国技館に出かけて枡席でビールを飲んでたらテレビに映ってしまったり。ほほをばら色に染め、きものとともに素敵な思い出が語られる。こうしたフネさんたちの話を聞くうち、肩の力が抜けた、東京のきものがおぼろげながら浮かんでくる。
それは、どんなファッション誌にも、教本にも、紹介されないけれど、フネさんたちが受け継ぎ、東京の暮らしに今もひっそり息づいている。
(いがや・ちか きもの好き文化系女子)
『日々、きものに割烹着』 詳細
猪谷千香著
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