愛しのエーリス──生きつづける屍体/今泉文子
地底深く降り立ったことがある。坑内服を身につけ、頭にはカンテラを帯びて。足の幅ほどの鉄梯子をはてしなく降り、ようやく水平な地面に着くと、今度は狭くて暗い湿った坑道を這うようにして進む。何キロにもおよぶ地下の迷路――単独行ならぬ者の目に、「地底の女王」や「幽霊じみた老鉱夫」(ホフマン『ファールンの鉱山』)は出没しなかったが、「人が住む地表からの遥かなへだたり」(ノヴァーリス『青い花』第五章)だけは、慄然と感じさせられた。
これは、ドイツ東部の鉱山町フライベルクで催された鉱山文学のコロキウムの折のことだった。中世から銀の産出で名高かったフライベルクに、一七六五年、世界最初の工科大学と言われる鉱山学校が創立された。やがてここで地質学・鉱物学の雄、A・G・ヴェルナーが教鞭をとると、その膝下にはノヴァーリス、A・フォン・フンボルト、H・シュテフェンスらが集まり、ゲーテもまた知識と人格に優れたヴェルナーに私淑する。自然学者のG・H・シューベルトも、一八〇五年、ヴェルナーの講義を聴き、その二年後「自然科学の夜の側の見解」と題する講演を行った。当時話題となった「自然学」のさまざまな見解に触れたこの講演は、直後出版されるが、そのなかの僅かな記述、スウェーデンはファールンの若い鉱夫の不思議な屍体の話だけが、とりわけて人口に膾炙し、一人歩きしていく。
落盤で生き埋めになったものの、緑礬水に浸されて美しいままに保たれていた若い鉱夫の屍体が、五十年後発見され、ひとりの老婆によって、かつての自分の花婿だったと認められたというシューベルトのこの報告を、いち早くひとつの読み物にまとめたのはJ・P・ヘーベルだった。その作品「予期せぬ再会」は、五十年という歳月の流れを歴史的事件と日々の営みの列挙で示し、「報告を自然史の地層にまで埋め込んだ」とベンヤミンに称賛されている。が、この報告をこのうえなく魅力的な幻想文学に仕立てあげたのは、E・T・A・ホフマンである。ホフマンはこの若い鉱夫に「エーリス」という名前を与えた。かくて、死せる若者エーリスは永遠の生命をえて、文学の広野を歩みつづけることとなる。世紀転換期ウィーンの作家ホーフマンスタールは、これを夢幻的な雰囲気の戯曲に仕立てた。この戯曲は、エーリスが地底の女の恐ろしくも甘い呼び声にしたがって花嫁を置いて出ていき、残された花嫁がむなしく岩の壁を叩くというところで途切れ、五十年後の再会は描かれない。そして二十世紀初頭の詩人G・トラークル――「エーリス、黒い森のなかでクロウタドリがうたうとき/それはおまえが沈みゆくとき。/おまえの唇は岩間の青い清水の冷たさを飲む」(「少年エーリスに」)。青い冷たさのなかに孤独に横たわる美しい屍体を、かれは「ヒヤシンスの身体」とも詠んだが、それはまた、「水晶の地中でやすらっている、聖なる異境者」(「ノヴァーリスに」第一稿)とうたわれるノヴァーリスを思わせる。石と化したあの屍体は、〈詩〉の象徴となって生き存えつつ、たえず出自のロマン主義を指し示すのだ。
ロマン主義者ホフマンは、地底の女王を、タンホイザー伝説のウェヌスのような単なる官能的な誘惑者ではなく、「秘密の記号、意味深い文字」を岩の割れ目に彫りこみ、それを了解せよとたえず呼びかける存在とする。その呼びかけにこたえたエーリスは、見えざる意味深い文字をまさぐる者、すなわち詩人になった、とこの物語は読めるだろう。日常の目には狂気に見えるその姿は、ロマン主義者にとって、「真の詩」を求める自画像なのだ。たとえば、ロマン主義の創作メルヒェンの嚆矢とされるティークの『金髪のエックベルト』でも、終章、狂気に陥り、森の奥深くで始原の音響を聞きつづける瀕死の主人公の姿は、やはり詩人のありようと読むことができるように。最後に付言すれば──エーリスの固く美しい屍体は、愛を失わなかった老婆に抱かれたとき、塵となって崩れるのだが、これも、石化した永遠に若い屍体たる〈詩体〉は、読み手の強い愛で変容すると、とれはすまいか。
(いまいずみ・ふみこ 立正大学教授)
『ドイツ幻想小説傑作選 ロマン派の森から』 詳細
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