理想の演出/山田洋次
僕が「孫弟子」と名乗ったら、伊丹万作さんにられるかもしれないけど、でも僕は橋本忍さんの弟子で、橋本さんは伊丹さんの唯一の弟子だから、孫弟子をじつは密かに自任しているのです。橋本さんの下で勉強をしていた頃、夕食を囲みながら映画界の話を聞かせてもらうのがものすごく楽しみでした。とくに伊丹さんの話が出ると、ワクワクしたものです。
たとえば伊丹さんが『無法松の一生』の執筆でかなり苦しんでいたある日、「橋本君、わかった」と晴れやかな顔で言われたそうです。「僕は長いこと、この物語は泥にまみれたダイヤの物語だと思っていた。でもそうじゃないんだ、これはな、人力車夫と美しい未亡人とのラブロマンスだよ。それ以上でも、以下でもない」、そう言って書き始めたそうです。そしてあの名作が生まれた。傑作を書こうと肩肘突っ張ったらいいものはできない。あの『無法松』の映画から観客が何を受け取るかといえば、教養のない無作法な男の心の中に、ふと燃えた美しい恋心なのだ。この話は印象的でした。
「演技指導論草案」を読んだ時は驚きました。演技指導とはこうあるべきだということを非常にわかりやすく書いていて、目からウロコが落ちるとはこのこと。まさに監督虎の巻。女優は貝のように口を堅く結ばないで少し開いたほうがいいとか、俳優は手をポケットに入れたがるからやめさせろとか、芝居がうまくいかない場合は監督は自分で動いてみろとか、見事に具体的。そして「どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない」という、学校教育の現場にピタリとあてはまる名言などなど。短い監督人生だったのに、伊丹さんは演出を知り尽くしている。僕は、撮影が始まる前によくこれを読んだものです。教科書のように、または聖書のように。
この「草案」の結論は、演技指導というのは信頼関係だということ、信頼の上に立たない演技指導は無効であるということです。すべての映画監督が守るべき、演技指導の原則です。でも実際は、そうじゃない。腹の中で俳優をバカにしていたり、逆に俳優の権威に恐れおののいて、おっかなびっくりでいたり。信頼関係って、実はそう簡単に持てないものです。
撮影現場では悩むことばかりです。たとえば『男はつらいよ』で、寅さんが帰ってきたら、自分が貰ったメロンをみんなが食べていた。「どうせあいつにはメロンの味なんかわかりゃしねえんだと言って、先に食っちゃったんだろ、この野郎!」と怒っている渥美清さんの演技が、何だかピンとこない。さあどうしてだろうと考えこんでしまう。僕はときどきそれをやるから、渥美さんなんかは、自分がいるとプレッシャーになるからと、気を利かせて表に出て、「相変わらずんでるかい?」なんてスタッフとおしゃべりしていてくれる。「助かるな」と感謝しながら僕は考え続ける。台詞なのか。動きなのか。解釈なのか。
渥美さんは滑稽な寅さんを演じようとしている。でも寅さんが自分を滑稽だと思っているわけがない。僕はふと子供の頃のことを思い出す。お客さんが来て、子供を寝かせたあと、夜中に美味しそうなケーキを食べていて、それを目をさまして見つけた時に、何だか自分が疎外されたような、仲間はずれにされたような悲しい気持になったものだ。ああそうだ、寅さんの気持はそれだ、除け者にされたという一瞬の寂しさ、悲しさが、怒りとなって噴き出したんだ。そう考えて渥美さんに、「寅は寂しかったんじゃないか。ただでさえ除け者というコンプレックスがある。それがピリッと、針が目に刺さるように寂しかった、悲しかった。だから怒ったんじゃないか」と言うと、「わかりました」と。そこはやっぱり渥美さんは素晴しい。もう一度テストをやるとピタッときて「ああ、いまのでいい」と思うわけ。
オーケストラの指揮者もそうだろうけど、「何か違う」から始まって、どこが違うのかを考えだすのが指揮者や監督の仕事。「違うな」「いいな」、OKかNGか、という感覚こそは監督をその監督たらしめる、彼の感性と思想のすべてだと言っていい。
伊丹さんが言う理想的な演出は、監督は何もしない。いわば無為の形式。これはとてもよくわかります。お互いの信頼のなか、静かで、ときどき冗談が飛び交って、みんな楽しそうで、スムーズに撮影が進む。監督が苦しんだり大声で怒ったりしない。もちろんそれは理想であって、現実はなかなかそうはいかないということも確かに言っていますが、それは僕の理想でもあるのです。(やまだ・ようじ 映画監督)
『伊丹万作エッセイ集』 詳細
伊丹万作・著 大江健三郎
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