山本安英と徳永直/大村彦次郎

 さまざまの文人たちの日常生活のスクラップを蒐めて、長い昭和の歴史の片鱗をホウフツさせられないか、と考えた。一年五話として、昭和は六十余年だから三百余話。過ぎし昭和という時代への、私なりの郷愁がそうさせた。敗戦の年の八月十五日から二話を抄出する。


●こんな日に仇討の芝居なのか
 この日の昼近く、女優の山本安英は東京の銀座にいた。劇団員の若い俳優たちと信州の山の中へ集団疎開していたが、放送の仕事があるというので上京し、放送局へ行く途中、天皇の詔勅を聴くため、松屋百貨店に寄った。店内はおよそ殺風景で、閑散としていた。
 正午、朗読は始まったが、天皇の声はガアガアと割れて、聴き取りにくかった。戦争に負けたということが辛うじて分る程度だった。放送を聴き終って歩き出してから、安英は「あの人の声、新内に向いているのじゃないかしら」と、およそ不遜な、突拍子もないことを思いついた。
 日比谷の内幸町の放送局では、正面玄関の入口の両脇に、剣付き鉄砲の兵隊が立っていて、安英をさえぎり、威嚇した。建物の中から、放送局員の春日由三が飛び出してきて、「山本さん、ちょっとちょっと」と押しとどめ、「こんな日に仇討の芝居なんか、やるわけにはいきません」と、息をはずませながら言った。天皇の録音盤奪取をめぐって、大変なひと騒ぎがあったあとだ。
 春日のいう仇討の芝居とは、久保田万太郎が山本安英と多村緑郎のために脚色した、森鴎外の「護持院ヶ原の仇討」のことで、放送劇としての題名は、「りよと九郎右衛門」、作品の男女の主人公名からとった。


●おらやの亭主、もどりすべか?
 女優の山本安英が東京銀座のデパートにいたころ、往年のプロレタリア作家で、「太陽のない街」の作者徳永直は疎開先の宮城県登米の、妻の実家に近い、豪農の家の座敷先の土間にいた。田んぼから上ってきたばかりの小作人の老農夫や、六、七人のもんぺをはいた女房と娘たちも畏まって待っていた。
 正面の床の間にあるラジオがさきほどからザアザア雑音を鳴らし、この家の青年学校に通う息子がいろいろいじくっていた。ラジオの前には、村の婦人部長である、この家の主婦が威儀をつくろって坐っていた。何しろこの山間の村では、ラジオが二台しかなく、新聞は二、三日遅れで配達された。広島の「新型爆弾」の噂が二、三日前に伝わってきたばかりだった。
 それでもきのう、町の国民学校から戻ってきた子供に、「あすは天皇陛下のご放送がある」と聞き、けさ十時ごろになって、「正午には、みなラジオの前に集まって、けせ」という、婦人部長のフレが回った。
 まもなく天皇の放送が始まったが、むずかしい抽象的な漢語ばかりで、誰もよく分らなかった。徳永だけが天皇の「矛ををさめ」というくだりを聞き、「戦争止めたんだッ」と、怒鳴った。すると、ラジオの前にいた何人もの女性たちが「ほんとすか?」とか、「戦争止みしたすか?」と、徳永の腕にとりついて離さない。「ほんとすか? おらやの亭主、もどりすべか?」ときいた女房の夫は、空母に乗ったままで半年も消息がない、ということだった。
 ラジオの前にいた婦人部長の主婦が、「戦争負けしたとはや、残念なことでござりした」と、両手をついて、みんなに頭を下げた。土間にいた女房たちはおうむ返しにお辞儀をした。


 山本安英は平成五年(一九九三)まで永らえ、徳永直は昭和三十三年(一九五八)、胃がんのため没した。
(おおむら・ひこじろう 元編集者)

『荷風 百(けん) 夏彦がいた ─昭和の文人あの日この日 』 詳細
大村彦次郎著

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