学問の奇蹟──懐かしい日本人の物語/島内裕子

 佐藤正英氏の新著『故郷の風景』は、日本人の心と魂の原風景を、小説の形式で描いた、きわめて独創的な本である。もちろん、「独創的」な発想やスタイルを持つ本は、世の中に何冊も見つかるだろう。けれども本書ほど、読む者の心の湖に、静かな波紋を広げる本が、またとあろうか。著者の想念は考え抜かれて、簡潔で清冽な短い文章となって生まれ出る。それらが、二つ三つ、五つ六つと、小さく寄り添って、いくつもの細やかな改行を作りだす。ページの余白は、散文詩のような余韻を漂わす。
 描かれているのは、日本人誰しも子どもの頃の記憶と重なる、懐かしい故郷の風景。難しい言葉はどこにもなく、平易でやさしさに満ちた、ふだん私たちが使う日常語ばかりである。小学生でも高学年ならば、言葉をひとつひとつたどって、きっと、この本に書かれている深い内容がわかるはずである。
 まして大人なら、平易な言葉の連なりが、どんなに精妙なニュアンスと陰翳を包み込んでいるかに気がついて、心が打ちふるえ、われ知らず涙がにじんでくるのを抑えられないだろう。そして、読み終わった時、深い叡智と素直な眼を、本書からしっかりと手渡されたことを、実感するに違いない。
 この美しくも懐かしい、「日本人の魂の物語」を書いたのは、小説家でも、詩人でもない。著者の佐藤正英氏は、和辻哲郎の学統に連なり、日本倫理思想研究の碩学である。けれどもこの物語からは、甘やかで憂いにも似たひそやかな言葉が、滾々と湧き出て人々の心を潤す。その思索の成果は、万人が共有し、共感できる。だから読んでほしい。すべての世代の人々に。
 この物語の時間は早春から始まり、少年の四季が一巡する三学期の終業式までの一年余り。舞台は、海と山に囲まれた、とある村落。人々は農作業と漁撈に従事する。かつてどこにもあった故郷の風景が、中学二年生の少年の眼を通して描かれる。
 今はもう、歳時記の中にしかない、色とりどりの懐かしい花花や小動物、空の色や風のそよぎ、湿り気を帯びた土の感触や草いきれ。五感に触れるすべてのものが、巡りゆき、巡りくる季節の中に織り込められて、読む者の心に沁みいる。日本人の魂の原風景は、生きて、今、この本の中に在る。
 物語の登場人物は、家族や親族、学校の先生や友だちなど、ごく身近な、名も無き人々である。その中にあって、忘れがたく心に残る人々がいる。清楚な転校生の鈴見涼子さんと少年との淡い交流や、切なく重い人生を担う「みい小母さん」、この土地にわずかな期間滞在し、静かに息を引き取って野辺送りされる旅の老人。少年は、日常以外の時空に触れてゆく。その手触りにこそ、日本人の喜びも、悲しみもある。
 鎮守の森には、八幡神社と阿弥陀寺が隣り合わせている。その境内は、縁日や歳の市で賑わう。六地蔵をまつる地蔵堂や、通学路の峠には馬頭観音。岬の突端には、明神様。海に浮かぶ中の島には、小さな鳥居が建っている。少年の祖父は、毎朝みずから船を漕いで、明神にお参りしている。
 私たちの先祖は、日々の平安を脅かすものを、祀り和らげ、祀られたものは、人々の暮らしを守る。そして、生者は死者を祀り、死者は生者を守ってきた。南方の島で戦死した叔父さんも、無縁の死者も、無数の魂となって、盆踊りの輪の中に寄り合う。お花見も正月も、生者と死者が寄り合う時季であった。
 本当に大切なものは、自分の指先でそっとなぞらずにはいられない。日本の四季と自然の中で、人々の心に宿る深い思いは、教義や戒律となるよりも、日々の暮らしのかたちとなった。その風景が、この本の中でたどられ、なぞり返される。
 古代から続く「日本人の心性の原郷」とは、どういうものなのか。「神仏習合」は、人々の暮らしをどのように支えているのか。これらの難問に答えることは、あの「批評の神様」である小林秀雄もできなかった。その難題に、物語の形式で応えた本書は、学問の奇蹟と言ってよい。学問は、物語となり、詩となった時、人々の胸に一直線に届くのだ。
(しまうち・ゆうこ 放送大学教授)

『故郷の風景 もの神・たま神と三つの時空』 詳細
佐藤正英

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