「9・11」以後を生き抜くために――ベック『世界リスク社会論』/北田暁大

 人々が自らの選択の基盤を自らの選択において作り出していかなければならない「再帰的近代」においてこそ、合意を目指す熟議が必要とされる――そのように言われることがある。集合的決定の基盤(伝統など)そのものもたえず問い返されざるを得ない状況において、それでも何らかの集合的な決定(合意)に至るための方法論、それが熟議民主主義である、というわけだ。
 そうした議論はよくわかるのだが、一方で、再帰的近代においてもっとも調達が容易な合意というのは、実はリスクに関してのものではないか、そしてリスク回避に関する合意は倫理的価値に基づく他の理由に優越するメタ理由として機能しうるのではないか、だとすればリスク回避を政治課題として設定するリスクの政治に対し熟議の政治理論は脆弱であらざるをえないのではないか。そんな疑問をどうしても抱いてしまう。リスク除去を最重要なアジェンダとして設定し、合意を半ば自動的に取り付ける、というリスクの政治は、「9・11」以後の世界において、信じがたいほどの広まりをみせた。それは再帰的近代における合意の危うさを私たちに十二分に見せ付けるものではなかったか。
 いわゆる再帰的近代論の先導者の一人であり、リスク社会についての先鋭的な分析を提示し続けてきたウルリッヒ・ベック。本書『世界リスク社会論』には、そのベックが、「9・11」を受けて、何を見、何をすべきと考えたのかが克明に記録されている。リスクを先導原理とする再帰的な社会の構造を、ベックは両義的に受け止めている。
 たとえば、テロリズムの脅威。それは、国民国家の単位でリスクに対応することの不可能性を示し、国家を超えた多国間の協力、主権像の更新を不可避なものとする。つまり世界社会における政治の単位性を問いかえすチャンスとなりうる。
 しかし一方で、「何がリスクか」ということは、政治家やメディアなどによって、様々な形で構築される。そこでは誰しもが「潜在的なテロリスト」として扱われ、除去の対象となる可能性を持つ。
 リスク社会の原理が世界社会へと展開していくことは、一方で、理想主義的なコスモポリタニズムを超えた現実性(コスモポリタン的な現実主義)、実現への合意を獲得しうるのだが、一方では、リスクの定義権を持つ人々の解釈政治を拡大させてしまう。世界規模のリスクの認識は、国際政治ならぬ世界政治への合意を取り付けると同時に、「セキュリティ保護のため」という理由が他の理由に優越する構造を固定化する。高度な合意可能性と、理由の価値的序列の固定化。熟議の喜劇的な完成、あるいは悲劇的な飽和。本書には、そうしたリスク社会の可能性と危うさが様々な形で書きとめられている。
 考えてみれば、この両義性は、ベックのリスク概念自体の両義性に由来するものかもしれない。リスクを構築主義的に捉えるか、実体的に捉えるか――ルーマン的にいえばRisikoとして捉えるかGefahrとして捉えるか――この論点を、「9・11」以前に刊行された『リスク社会』(邦題は『危険社会』)は微妙な形で「留保」していたように思われる。構築主義を押し出せば、リスク言説の恣意性と政治性を明示化することができるが、同時に世界リスク社会のコスモポリタニズムも恣意的な記号の上に築きあげられた楼閣である、ということになりかねない。とはいえ、リスクは再帰的な近代において前面化された歴史的概念である以上、それを愚直に実体視することもできない。
 本書では構築主義/現実主義の対比が扱われているが、ベック自身はそのどちらにも与するつもりはないようだ。むしろ、クリアな対比によって見落とされてしまう出来事と政治(の可能性)へと繊細なまなざしを向けることに、彼の関心はある(一定の反省を経た現実主義)。それを方法論上の「揺らぎ」と見るか、理論的な先鋭性と見るかは、読者の方法意識・問題関心に依るだろう。しかしいずれにせよ、「9・11」以後を生きる/生き抜かなければならない私たちの思考を喚起するテクストであることは間違いない。文庫化により、いっそう多くの読者に議論が開かれていくことを期待している。
(きただ・あきひろ 東京大学大学院情報学環准教授)

『世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊』 詳細
ウルリッヒ・ベック 島村賢一訳

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