〈石〉の夢 ――『遠野物語』との出会い/安藤礼二
『遠野物語』をはじめて読んだのは大学生の時です。私は文学などとはまったく縁もゆかりもない考古学を専攻する史学科の学生でした。もちろん幼い頃から読書は好きで、将来もしもなることができるのなら、とにかく何らかのかたちで書物に携わる仕事がしたいと思ってはいましたが……。果たして文学というものの本質を、大学という場で学ぶことは可能なのかという疑問は、当時も、大学の教員となった今でも変わらず持ち続けています(だからと言って大学に勤務する者の責任を回避しているわけではありません、念のため)。言葉という抽象的な対象を離れ、できれば人間の生活が成り立つ物質的な基盤を具体的に、根源まで探究していきたいという想いが、私に考古学を選ばせたのでしょう。毎年、十一月初旬の大学祭期間の一週間、考古学を専攻する学生たちは実習として発掘のフィールドワークに出かけます。私たちの時代は岩手県田野畑村にある環状列石、というよりは特異な石の連なりの謎の遺構でした。
ちょうど山と海の境に、縄文人たちは「石」を立てて、生者が住む場を区切り、その隣に祭祀の場であるとともに死者を葬る場を設けます。「石」によって生と死が分かたれると同時に、生と死が一つにつながってもいるのです。そして私は、縄文人たちと同じように「石」に取り憑かれてしまった人間が現在でも数多くいることに、宿舎に持ち込んだ『遠野物語』をはじめとする柳田國男の著作を読み進めていくことで気づいていったのです。極東の「山島」(小さな山のような島々が無数に連なる――柳田自身が使っている言葉です)に住み着いた人々は、大昔から境界の場所に「石」を立てている。東京から田野畑に向かう途中、宮古に到着する手前で遠野を通過しました。私は、縄文人たちが過去の記憶と未来の願望を「石」に封じ込めた遺跡からの帰り道、はじめて遠野に足を踏み入れたのです。
遠野は、さまざまな世界に交通の道がひらかれ、さまざまな「石」が林立する場所でした。『遠野物語』の「九一」には、「早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在所」を知る鳥御前という鷹匠が、「続石」という「珍しき岩」の陰で、正体不明の「赭き顔の男と女」と遭遇し、命を落とすという非常に印象的な挿話が語られています。その「続石」をこの眼にしたときの驚きを今でも覚えています。巨大な石が、奇跡的なバランスを保って、すぐ眼の前に立っていたのです。私は「続石」を見た瞬間、『遠野物語』を仕上げるために遠野を訪れた柳田が、なぜ『遠野物語』ではなく『石神問答』に取りかかり、それを先に刊行してしまったのか理解できたように思いました。さらにこの場所から、私が違和感を抱き続けてきた文学とは異なった、もう一つの文学がはじまっていることにも……。柳田國男は「石」から自分独自の文学をはじめたのです。人間の魂は、古代から物質的な基盤を持ち、「もの」として存在し、「石」として境界に立ち続けてきたのです。
そのような「石」からはじまる文学は、柳田國男一人ではかたちにすることができませんでした。『石神問答』は多くの人々との往復書簡という形式をとらねばならず、『遠野物語』が成り立つためには、物語の語り手である佐々木喜善と喜善を柳田に紹介した水野葉舟という複数の関係性が必要とされました。具体的な「もの」から、現実の大きな歴史(すなわち物語)とは異なった無数の小さな物語が紡がれ、さまざまに響く他者の声を積極的に取り入れながら、生と死が重なり合うような、もう一つ別の世界の消息を伝えてくれます。柳田と同世代の泉鏡花が真っ先に反応し、折口信夫が引き継ぎ、そして『遠野物語』刊行から百年が経った現在においても、表現の新たな可能性がそこから生み出し続けられています。『たそがれの国』という一冊の書物に、私なりに読み解いていった、『遠野物語』からはじまるもう一つの文学的な系譜をまとめてみました。私の個人的な読書の記録であることを超えて、新たな文学史の素描になっていることを願っています。
(あんどう・れいじ 多摩美術大学准教授)
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