木になった人たち/木村榮一

 名文家で知られるスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは、「ドアを開くと目の前に一角獣の駆け回る草原が広がっている、それが幻想の世界だ」と卓抜な比喩で幻想文学を定義している。つまり、幻想の世界はピーター・パンの住む妖精の世界と違ってドアを一枚隔てて、現実の世界と地続きになっているのである。
 梨木香歩の新作『ピスタチオ』でも、アフリカへ旅立った主人公はそのままするりと幻想の世界に入り込んでしまう。しかし、先を急がないでおこう。主人公は棚というペンネームで雑文を書いている。小説の前半では彼女の平凡な日常が語られる。以前彼女が会社勤めをしている時に、気分が鬱屈して一時期ナイロビに滞在したことがあり、向こうで大学時代の友人三原や民俗学者の片山海里と会うが、その時の体験がやがて作品の後半で繰り広げられる物語の伏線になっている。
 ある日、編集者から旅雑誌の企画で取材旅行の話があるんですが、ウガンダへ行ってみませんか、と言われる。話を聞いて、片山のことを思い出し、気になって調べてみると、彼は呪医の研究をしていて、自身もトレーニングを受けていたらしいが、すでに亡くなっていた。ただ、遺作が残されていると知って、それを入手する。棚は観光地としてのウガンダの魅力を探ると同時に、片山、それに彼と一緒に呪医、呪術の研究をしていた鮫島の足跡をたどってみようと思い、ウガンダへ旅立つ。
 棚はそこで思いもよらない不可思議な体験をし、奇妙な出会いを持つが、ぼくはこの小説を読みながらキューバのアレホ・カルペンティエルの小説『この世の王国』を思い出していた。
 カルペンティエルの小説では奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人たちの世界が描かれているが、ブードゥ教を信じている彼らの世界もやはり驚異に満ちている。作者は小説の「序」で「驚異的なものをとらえるには、何よりもまず信じることからはじめなければならない」と述べているが、棚が出会った人たちはまさにそのような人たちであり、だからこそ奇跡が起こりうるのだろう。ぼくたちを驚きに満ちた世界へ引き込んでゆく作者の巧みな語りに魅了されて読み進むうちに、遺骨となってピスタチオの木に生まれ変わった少女ババイレの話にたどり着き、作品の末尾には棚の書いた「ピスタチオ――死者の眠りのために」という物語が収められている。
 この小説を読み終えてぼくは、宗教学者ミルチャ・エリアーデが報告している事例を思い出した。イタリアの学者がルーマニアのある村で面白いバラードを採取する。山の妖精が若者に恋をするが、婚約者がいると知って嫉妬した妖精が彼を谷に突き落としてしまう。村人が若者の帽子が木の枝にかかっているのに気づいて、谷底に転落していた遺体を発見し、村に運んで盛大な葬儀を営むが、葬送の歌を先導したのが婚約していた娘だったというものであった。研究者たちがよほど古い時代の話だろうと思って調査してみると、婚約者だった女性はまだ生きていると分かってびっくりする。実際は、娘に会いに来た若者が夜の山道で足を滑らせ、谷底に転落したのだが、バラードと民話として残すために山の妖精を登場させたのである。
 エリアーデはこのエピソードから、歴史的な出来事は重要なものであっても民衆の記憶に残ることはない、人々の記憶にとどまるには神話的なモデルに密接に近づけなければならないと述べている。木になりたいと願った片山、ピスタチオを残したババイレ、彼らのことは親族や友人の記憶に残ることはあっても、民衆の記憶に残ることはない。しかし、作者が最後につけ加えた物語のおかげで、ババイレと片山の死は、木に変身した人間がいたという神話的な物語として、人々の記憶の中に長く生き続けることだろう。
(きむら・えいいち 神戸市外国語大学学長)

『ピスタチオ』 詳細
梨木香歩 著

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