つい声に出して読みたくなる/岡崎武志

 今年(二〇一〇年)も年末ジャンボ宝くじが売り出され、西銀座の売り場には長蛇の列ができた。これはもう、歳末が近づいた頃の歳時記的風景である。
 さて、これは江戸のお話。バクチ好きの左官・次郎兵衛が買った、 たった一枚の富くじがみごと千両を射止める。それをまだ次郎兵衛は知らない。慌てたのは売った「日向屋」の隠居。これは大変だと相談に行ったのが幼なじみで貧乏長屋の大家・源助。「大ごとになる」と隠居は心配している。なぜなら「当たらない方がいい人に当たっちまったから」だ。
 こうして貧乏長屋に起こる騒動を、地の文を排し、会話だけで描き切ったのが長編時代小説『長屋の富』だ。これが「著者初の時代小説」と聞いて訝った。初ものと感じさせない、堂に入った練達の仕事だからだ。
 しかし考えてみると不思議じゃない。バクチ好きの左官職人、大店の隠居、大家に貧乏長屋の住人、若旦那や与太郎まで登場するとあれば、 これはどうしたって落語世界でおなじみの人物たち、オールキャストだ。お忘れになっては困るが、著者の立川談四楼さんは立川談志門下の高弟で、古典落語と創作落語の二刀流として名高い噺家だ。目をつぶっていても歩けるほど、落語世界に通暁しているお方じゃないか。『長屋の富』が遅滞なく生き生きと、早瀬を流れる舟に乗るように話が運ばれていくのも当然なのだ。
 それにしても「富くじ」とは、うまいところに目をつけた。落語の演目のなかでも、名作「富久」に始まり、「御慶」「宿屋の富」「水屋の富」と、「富くじ」を扱ったものは多い。欲の突っ張った人間に、天から降るように目のくらむ大金が舞い込む。これらの落語は、いずれも身に添わない僥倖を前に、平常心を失い、七転八倒する人間の悲喜こもごもを描いて、現代にも通じる話題だ。
 著者は、いわばそれらの演目のエッセンスをうまく取り込みながら、 一種の人情話にさらりと仕上げてみせた。落語世界にどっぷり浸ってきた体感が生きているとともに、二十年も作家として言葉と格闘して得た 「富」が、この一作に生かされている。
 なにより落語ファンにはたまらないのが、前出の「富くじ」ネタの引用にとどまらず、知っていたらうれしい仕掛けが随所にあることだ。たとえば開巻近く、居酒屋で日向屋の大旦那が次郎兵衛に、余った一枚の富くじを売りつける件り。ツマミを注文したところ、「えー、できますものは菜のおしたしに煮豆腐、それから塩辛といったところでござい」と親父が答える。ここは言葉を変えてあるが、落語「居酒屋」の有名な「へええい、出来ますものは、けんちん、お浸、鱈昆布、鮟鱇のようなもの」を思い出させる。もっと言えば、先代・金馬の明快な語り口調が浮かぶ。
 挙げ始めるときりがないが、次郎兵衛が失くしたと思った当たり札が、大神宮さまの棚から出てくるところは「富久」、日向屋の堅物の若旦那を誘って吉原へ行く場面は「明烏」等々、ファンの気持ちをくすぐるお遊びが随所にある。
 それでは、落語ファンでなければおもしろくないかと言われればそうじゃない。伝統芸として伝承と洗練を重ねた話芸である落語で育まれた会話のリズムと旨味は、落語を知らない読者にも、爽快さと快楽を感じさせるだろう。だから、『長屋の富』は、つい声に出して読みたくなる小説なのだ。事実、私はそうして読んだ。
 自家薬籠中の技を十二分に取り込んで、談四楼さんが時代小説という分野に新しいポジションを得たことを言祝ぎたい気分だ。これは、まさしく「声に出して読んで」楽しい小説だ。これからも、落語の「富」を生かした時代小説をどしどし書いていただきたい。
 談四楼さん、半世紀もたった後、あるいは後代の人に言われるかもしれませんよ。なんだか、二葉亭四迷みたいに、噺家のような名前の、うまい小説家がいたんだな、と。
(おかざき・たけし 書評家)

『長屋の富』 詳細
立川談四楼 著

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