過去を殺さずに/青山拓央

 ある程度の年齢を過ぎると、恋をするのは難しい。いろいろな知識が邪魔をするからだ。
 若いころの無知は、それ自体が一つの能力である。知らないものがあることは、焦燥と一体の熱意を生み、また、何かとてつもなく素晴らしいものがあるんじゃないかと夢見させてくれる。そして、知らないものがあることさえ知らないことは、怖いもの知らずの推進力を生む。
 約十年前、『タイムトラベルの哲学』(講談社)を書いたとき、私は哲学恋愛期にあった。哲学的問題そのものに恋をしていたと言ってよい。目が覚めている時間のうち、そのほとんどで私は哲学をしていた。友人と遊んでいるときも、恋人と食事をしているときも、ときには眠っているときでさえ頭の一部で哲学をしており、そうしないでいることは不可能だった。
 今日、私は哲学を愛しており、その研究・教育を仕事にしているが、おそらくもう、哲学に恋しているとは言いがたい。恋をするには、哲学について知り過ぎたのだ。もちろん、哲学について知らないことはいくらでもあるが、若いころの無知とは質が違う。どの本のどこを読めばどの程度その無知が減るかも分かってしまっているような無知にすぎない。
 今回、『タイムトラベルの哲学』を文庫化して頂くにあたり、私は大幅な加筆をした。全体にわたって文章を直し、新しい章も追加したため、タイトルも『新版 タイムトラベルの哲学』と改めた。
 しかし大幅な修正をしつつも、私は次のことにこだわった。修正によって、過去の自分の無知を殺さないようにすることに。だから、議論や問いの内容には基本的に手を加えず、いまなら専門家風に――いろいろな哲学説を比較して――書いてしまいそうな箇所も、旧版での叙述をできる限り生かした。
 哲学の場合、無知であることは熱意を生むだけではない。哲学をもっぱら問題発見の営みとして捉えるとき、無知ゆえに見える問題というのはたしかにある。積み上げ式の知識は問題を整理するのに役立つ一方、これまでにあった問題を組み合わせるかたちでしか問題を理解できない頭を作るからだ。科学者にとってはまだしも、哲学者にとってこれは致命的である。
 周辺的な話はこのくらいにして、本の内容にも少し触れておこう。タイトルの通り、この本で私はタイムトラベルについて考察している。しかしこの本の真のテーマは、じつはタイムトラベルではない。タイムトラベルは思考実験の一つの素材であり、私が本当に知りたかったのは、時間とは何か――とくに時間の流れとは何か――ということだ。
 だから、この本ではタイムトラベル以外にも、言語、意識、自由、死などが、時間との関係において論じられている。また、有名な「アキレスと亀のパラドックス」についても、あまり例のない解説(アキレスが亀に追いつかなくてもよい理由の解説)がなされている。
 話題の一つを例にあげよう。私は生命保険に入っており、仮に私が死んだなら、家族が保険金をもらえると思っている。つまり、私の死後にも世界には今が在り、時間は流れ続けると思っている。しかし、私の死後における今とは何だろうか。
 今がいつであるかは、観察可能なデータによっては決まらない。私は今がいつであるかを、観察されたデータ(たとえば某月某日は晴れである)ではなく、まさに今、観察をしているという事実によって知る。今日は晴れているが、晴れている日が今であるのは、べつに晴れているからではなく、今がたんに今だからだ。そして、私がそれを知っているのは、私の意識経験が、まさにその今に在るからである。
 私が死ぬということが、私の意識がなくなることなら、その後の世界における今とは何だろう。意識の存在から独立の今。もしそんなものが在るなら、その今は、私が生前に捉えていた今と根本的に違うものかもしれない。
(あおやま・たくお 山口大学時間学研究所准教授)

『新版 タイムトラベルの哲学』 詳細
青山拓央 著

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