尖閣事件、そして三島由紀夫没後四十年/関岡英之

 二〇一〇年は三島由紀夫没後四十年であった。十一月二十五日の憂国忌には、東京・九段会館大ホールにおいて、乃木神社神職による鎮魂祭に引き続き、「あれから四十年、日本はどこまで堕落するのか」と題したシンポジウムが開催された。
 三島由紀夫がなぜあのとき、あのような行動を起こしたのか、四十年経過した現在でも十分に解明されているとは言いがたい。そうしたなかで、シンポジウムの登壇者の一人であった西尾幹二氏が、非常に興味深い見解を披露した。後日、西尾氏は「三島由紀夫の死と日本の核武装」と題する論文を『WiLL』二〇一一年二月号に寄稿している。
 三島由紀夫の自決は、その半分は文学的動機によるものであったが、世界のリアル・ポリティクスから隔絶した自閉的なものではなかった、それは事件の九カ月前に明らかになった、日本政府によるNPT(核拡散防止条約)への署名に対する死の抗議だったのではないか、と西尾氏は指摘する。
 西尾氏は、三島が遺した「檄」の中で、次のようにNPTに言及していることに注意を喚起している。
「……国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。」
 西尾氏がいま、核の問題に着目した背景には、十月三日にNHKが放送した「スクープドキュメント 〝核〟を求めた日本」という番組が投げかけた波紋が関係している。この番組の中で、かつて外務省事務次官、特命全権駐米大使などを歴任した村田良平氏が、わが国の国家機密を吐露した。
 一九六〇年代、佐藤栄作政権の時代に、日本政府は内閣調査室に専門家を集めてプロジェクトチームを編成し、極秘裏に核兵器の開発を検討し、秘密報告書をまとめていた。佐藤政権が核開発の検討に着手したのは、一九六四年の中国による核実験がきっかけだった。さらに外務省は、当時の西ドイツ政府との間で核開発に関する極秘交渉を行っており、村田氏は自身がその会合に出席していたことを明らかにしたのだ。
 NHKが村田氏のインタビューを収録したのは二〇一〇年二月のことだという。村田氏はその一カ月後に肺がんで死去している。番組が放映されたときにはすでにこの世を去っていたのだ。死を目前にして、元国家公務員としての守秘義務をあえて冒して重大な国家機密を明らかにした理由について、村田氏はインタビューのなかで次のように述べている。
「日本という国の至高な利益が脅かされるような緊急事態になったら、核兵器を持つというオプションも完全にはルールアウトしない」
「日本において核に関する真剣な、まじめな、しかも実体の脅威を頭に入れた議論を巻き起こすべきなんです」
 村田氏がこの世を去った半年後、沖縄県の尖閣諸島付近で、まさに「日本という国の至高な利益が脅かされるような緊急事態」が発生し、日本を、いや全世界を震撼させた。
 おりしも二〇一〇年、日本はGDP世界第二位の座を中国に明け渡した。アジアで最も豊かで、最も成功した国、日本という、明治以来の大前提が潰え去ったのだ。
 一方、イラク戦争の失敗とリーマンショックによって米国が衰退期に入った現状を、中国は周辺地域に勢力圏を拡張する千載一遇の好機とみて積極攻勢にうって出ている。
 尖閣事件は、いまや軍事的のみならず、経済的にもわが国を凌駕するに至った強大な中国にどう対処するべきかという、死活的な問題を私たち日本人に突きつけた。
 近代以降、経験したことがない新たな脅威から、日米同盟だけで果たして日本の安全を守れるのか。
 かつて三島由紀夫が、そしていま、村田良平元大使が提起した問題に、真剣に向き合わねばならない時が満ちてきている。
(せきおか・ひでゆき ノンフィクション作家)

『中国を拒否できない日本』 詳細
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