音楽の趣味と政治/奧波一秀

 二〇一〇年はショパンとシューマンの生誕二〇〇年、ヴォルフとマーラーの生誕一五〇年と、音楽ファンにはたまらぬイベント目白押しの一年だった。さてこの四人、重要度順に並べ替えるとどうだろう。現代日本の一番人気は圧倒的にショパンだろうが、マーラー人気もなかなかどうして、ひけをとるまい。
 しかし少なくとも半世紀前のドイツでは、ことはそう簡単ではない。音楽は「好み」の問題を超えた「政治的」意味を持ってしまう――とりわけ作曲家が「ユダヤ人」の場合には。
「ドイツ音楽家・音楽教師連盟(VDTM)は、メンデルスゾーンとマーラーの記念日を黙殺するというような暴挙を、まったく恥じていないのでしょうか」(Zeit 1960.2.13.)と憤るのは、マーラーの弟子でやはりユダヤ人の指揮者クレンペラーである。
 VDTM刊行の一九五九年度手帳の巻頭言は、ヘンデル没後二〇〇年とハイドン没後一五〇年に触れ、メンデルスゾーン生誕一五〇年を「黙殺」、一九六〇年度はショパンとシューマンの生誕一五〇年とヴォルフ生誕一〇〇年に触れ、マーラー生誕一〇〇年を「黙殺」した。前者の是非はともかく、マーラーを落としてヴォルフを残す仕儀は、二〇一〇年の感覚からは不思議というほかない。クレンペラーが怒りの公開書簡を記したのも道理といえよう。彼は一九六九年にも「ウィーン国立歌劇場創立一〇〇年の記事にマーラーの名前がありません。これでは一九三三年から四五年の時期に連れ戻されたような気になります」との抗議電報をシュピーゲル誌に送ったが(シュトンポア『クレンペラー』1998 一六七頁)、劇場政治をスケッチしたていどの雑誌記事(Spiegel 1969.5.26.)にも目くじらを立てたくなるほど、戦後ドイツにおいても(むしろナチ後だからこそ)、音楽と「人種」をめぐる「政治」はなお燻っていたのだろうか。
 VDTM告発の口火を切ったのは、アドルノを含む四人の知識人だった。「メンデルスゾーンとマーラーは同じ運命を辿った。作曲家として格別の顕彰に値するとはみなされなかった、VDTM理事会によって。二人とも一九三三年から四五年まで、ユダヤ人としてパージされた。VDTMは今日もパージを続けたいのか?」(Zeit 1960.1.29.)と。
 最初にVDTMの態度に不信を抱き、悪意を確信したのはゲオルク・ボルヒャート、現在ハンブルクのマーラー協会理事である。彼がハンス・ヴォールシュレーガーに知らせ、アドルノとも接触。かくしてヴォルフガング・ボイティンの右記の抗議文が四人の署名とともに公表された。
 VDTM理事長アルノルト・エーベルは当惑しつつも、反ユダヤ主義的な意図は否定した。「黙殺」は理事会ではなく比較的若い編集者によって行われたらしい。VDTMは翌年以降の手帳から巻頭言を無くし、音楽に関連する写真と引用に代えることで問題収拾を図った。
 そして半世紀後、二〇〇九年のDTKV(VDTM後継団体)の手帳巻頭には、ヘンデルとハイドンをさしおいてメンデルスゾーンの《交響曲第一番》楽譜が掲載され、その生誕二〇〇年が言及された。二〇一〇年にはシュレジンガー出版社の創立二〇〇年が、創業者アードルフ・マルティン・シュレジンガーの肖像とともに紹介された。シュレジンガー社は手帳を現在発売しているローベルト・リーナウ出版の前身だから、マーラーをさしおいて巻頭におかれても不自然ではない。メンデルスゾーン《交響曲第一番》の楽譜もシュレジンガー社版。創業者シュレジンガーはユダヤ人で、かつてベートーヴェンがキリスト教的作品《ミサ・ソレムニス》の出版を見送ったこともある。
 現代ドイツで、音楽における「歴史記述問題」がこのような解決を見ている現実に、泉下のクレンペラーやアドルノは満足しているだろうか。
 翻って、西洋クラシック音楽における好みを――それを趣味とすること自体の「階級性」は別として――全くの個人的趣味の問題として語りうる現代日本の状況について、私たちはその政治的無邪気を自嘲すべきだろうか。それとも無知ゆえに純粋に音楽を愉しめる幸運を、かみしめるべきだろうか。
(おくなみ・かずひで 日本大学他非常勤講師)

『フルトヴェングラー』 詳細
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