「Herstory 彼女の物語」/落合恵子

 一冊の本をどう読むか。本が本という形になった瞬間、それは、それぞれの読者の手に委ねられる。ベルティーナ・ヘンリヒスの『チェスをする女』も、例外ではない。
 新しい本を読み始める時いつもそうするように、わたしはまずお湯を沸かす。そして長年愛用している注ぎ口が細く長いケトルでコーヒーをいれる。それからオーディオセットにCDをセットする。これが、新しい本へのわたしのアプローチのしかただ。
 しばらく読みすすみ、主人公であるエレニの日常や家族構成、仕事の手順や島の交友関係が頭にしっかり根づいたあたりで、淡い違和感を覚えた。大したことではないが、部屋に流れている曲と、この本のトーンが似合わないというそれである。
 男性ヴォーカリストの声、特に息遣いが、どうしても本書『チェスをする女』としっくりこないのだ。本を中断するのはつらかったが、未整理のままのCDの棚から、ある一枚を発見できた時は小躍りしたいほどだった。『MEG/CRIS AT CARNEGIE HALL』。メグ・クリスチャンとクリス・ウィリアムソンのCDである。
 日本ではそれほど知るひとがいないアーティストだが、ふたりはフェミニズムの洗礼を受けたものにとっては、忘れがたい存在であるのだ。彼女たちのナンバーに、『Glad to be a Woman』がある。歌詞カードがついていないので、自分の耳を信じるしかないのだが。♪……長い間、わたしは苦い日々を送ってきた。(自身ではなく)他の誰かになれ、と言われて。(略)本はいつだって、わたしを怒らせた。そこに出てくる「女」はわたしじゃない、と……。この曲の「わたし」と、ギリシャの島のホテルで客室係をする本書の主人公エレニが、さらに読み進むうち、わたしの中で、そっと寄り添い、一瞬重なった。
 客室で偶然見つけた世界最古のゲームと言われるチェス。心惹かれ、おずおずと、そしてある時から加速度を増してのめりこんでいくエレニ。本といえば、教科書と料理本しかない家で、夫のパニスや子どもたちに隠れて、チェスの教則本を読み耽る彼女。チェス盤は冷凍庫に隠したまま。
 もし、エレニが「彼女」でなくて、「彼」であるなら、突然自分の人生に差し込んだひとつの「光」を、こんな風に注意深く隠さなくてはならなかっただろうか。それがチェスであれ、男たちがカフェや居酒屋でしばし興じるゲームであれ。
 そしてかつての教師、クロス先生との毎週水曜日の対戦が、エレニにとっての、敢えて言うなら、日常の中のほかの何にも代わりえない時空となっていく。
 女がチェスを? あの客室係が? パニスのあの妻が?
 噂は瞬く間に島じゅうに広がる。夫は理解できないがゆえに憤り、子どもたちも近隣の人たちもエレニの変化に居心地悪い思いを抱く。変化とはいつもそういうものなのだが。
 妻であり母であり客室係である彼女しか、誰も知らない、認めない。妻であり母であり客室係であること以外のなにものも、エレニは求められていない。過去も現在も、たぶん未来も。
 積極的ではないにしても、彼女の娘や、ホテルのオーナーのマリアや、夫の友人の妻などが、チェスに熱中する彼女を見守り、受け入れようとする。例外を除いて、エレニの変化を歓迎するのが女たちであることも興味深い。
 そうしてエレニは置手紙を夫に残し、チェスのトーナメントに出場するため、島を離れるのだ。
 前掲の『Glad to be a Woman』を集会などでよく耳にしていた頃。歴史を意味するHistoryを真ん中で二分すると、his storyになる。語源は違うが、いつだって歴史は男たちの人生を刻んできた。だから女は「herstory」を紡いでいこう……。そんな会話が熱く交わされた。
 本書は四十代のひとりの女が、自ら獲得した熱中の時空の中に改めて引き受けた自分の人生をHerstoryに成長させていく物語だ。人生を変えるのに、遅すぎるときはない、と。
(おちあい・けいこ 作家/女性の本の専門店ミズ・クレヨンハウス主宰)

『チェスをする女』 詳細
ベルティーナ・ヘンリヒス 著 中井 珠子 翻訳

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